2015年7月28日火曜日

太平洋戦争に関するドイツの歴史テレビ番組

ドイツ公共放送の第2ドイツテレビ ZDFで、7月26日夜 “Pacific War” – der Krieg geht weiter と題された太平洋戦争に関する45分間のドキュメンタリーが放送されました。私もコメンテイターの一人として出ています。私へのインタヴューは、今月初旬、私がベルリン滞在中に録画されたものです。当然ながら、全部ドイツ語の説明で、私の英語の説明にもドイツ語訳が音声でつけられています。しかし、当時の記録映画をふんだんに使っており、中にはめずらしい映像もあるため、ドイツ語が分からなくても観ているだけでなかなか興味深いです。


下記アドレスで番組が観れます。 



ユーチューブでも観れます。




2015年7月27日月曜日

季刊『ピープルズ・プラン』掲載論考

季刊『ピープルズ・プラン』の最新号(Vol.69)に拙論「被爆・敗戦70年:日米の戦争責任と安倍談話を問う」が掲載されました。
昨日、7月26日に開かれた、「『戦後レジーム」の70年を問う7・8月行動実行委員会』主催の私の講演会では、この論考やすでにこのブログに載せている雑文を使いながら、話をさせていただきました。会場となった東京水道橋の全水道会館の入り口前には、右翼の妨害を想定して、公安スタッフや警察の車が数台張り付いていましたが、残念ながら私は右翼から重要人物とは見なされていないようで(苦笑)、右翼は現れませんでした。


被爆70年 - 日米の争責任と安倍談話を問う

田中利幸



目次:

1)武力紛争百年の歴史と日本の歴史的責任

2)米国による「原爆無差別大量虐殺正当化」と日本による政治的利用

3)日米共同謀議による「日本の戦争責任意識欠落」状態の創出

4)日米共同謀議に由来する「歴史認識欠如」と「天皇制」  

5)結論:安倍政権による民主主義体制の破壊と戦争準備 



武力紛争百年の歴史と日本の歴史的責任

  1千万人という戦死者を出した史上最初の総力戦である第1次世界大戦の開戦から昨年は百年目、8千万人以上と推定される死亡者を出した第2次世界大戦終結から今年は70年目にあたる。1914628日のサライェヴォにおけるオーストリア・ハンガリー帝国皇太子夫妻の暗殺事件に端を発する第1次世界大戦の根本的な原因は、ヨーロッパ諸帝国間の植民地獲得競争であった。近代における帝国主義拡大と植民地獲得競争という二つの世界武力紛争要因は、第1次世界大戦後も、解決されるどころか、ヨーロッパ・アフリカ地域からアジア太平洋地域にまで拡散した。その二つの紛争要因は、朝鮮・台湾を植民地化し、満州・中国へと支配拡大を進め、さらには南進政策を開始しした日本を巻き込んで、再び第2次世界大戦を引き起こす決定的な原因となった。第2次世界大戦後のこの70年の間にも、米ソ間の冷戦(cold war)が長年続いただけではなく、朝鮮、ベトナム、中南米、中東、東欧など世界各地で戦争(hot war)が絶えない状態が続き、無数の人たちの命を奪い、自然環境を激しく破壊してきた。そして今も、地球の様々な場所で、殺戮と環境破壊が続いているのが現状である。言い換えれば、第1次世界大戦も第2次世界大戦も、その結果は世界紛争の問題解決をもたらすことは決してなかったのである。二度の世界大戦の終結は、戦争の完全な原因解消によるものではなく、単に一時的な停戦状態をもたらしたに過ぎなかった。すなわち、人類はこの百年の間ずっと戦争状態の中にあり、人類自滅の道へと突き進んでいるのであって、大きな歴史の流れの中でとらえてみれば、本当は「戦後」などという時期は経験していないのである。「戦後」という表現を使うことで、アジア太平洋戦争期とその敗戦後の日本社会に決定的な歴史的・政治的断絶があるかのごとく考えることは、こうした世界史的観点から見ても、さらには後述するように、日本の固有の歴史的観点から見ても大きな間違いである。アジア太平洋敗戦70周年を迎えるにあたり、我々はまずこの事実をはっきりと確認しておく必要がある。



  したがって、19319月から458月までの15年という長い年月にわたって日本が繰り広げたアジア太平洋地域での侵略戦争に関する歴史認識と責任問題は、私たちが日本市民としてだけではなく、世界市民として、この百年にわたる人類の暴力と殺戮の連続の歴史の中でそれらをどのようにとらえ直すべきか、という発想から出発すべきものである。すなわち、日本の帝国主義=天皇制軍国主義の歴史、韓国・台湾に始まった植民地支配とアジア太平洋地域一帯に拡大した軍事占領の歴史、さらには、敗戦後は米国主導によるアジア・中東各地での戦争に、最初は主として経済的な面で、そして最近はますます軍事的な面で加担するようになってきたこの70年の歴史を厳しく自己検証することが必要である。そのような「過去の克服」なしには、現在の「永続的戦争状態」を脱却し、文字通り実質的な意味での「平和な人間関係」に基盤を置く社会を築くことは、東アジアどころか国内においてすら不可能である。



米国による「原爆無差別大量虐殺正当化」と日本による政治的利用

  第2次世界大戦中にヨーロッパ戦域でナチス・ドイツが犯したユダヤ人大虐殺をはじめとする様々な戦争犯罪とその責任をめぐっては、ドイツはこの半世紀ほどの間に見事に「過去の克服」を全国民的レベルで行ってきた。これとは対照的に、アジア太平洋戦争での「過去の克服」に日米両国が共に失敗した決定的な原因は、「米国の原爆無差別大量殺戮正当化」と「日本の戦争責任意識欠落」との2つにあることは明らかである。しかも、その2つが実はひじょうに密接に関連している問題であり、両方とも日米共同謀議による画策の結果であったことを明らかにしておく必要がある。



  まずは「米国の原爆無差別大量殺戮正当化」から検討してみよう。194586日と9日の原爆による21万人(内4万人は韓国・朝鮮人)にのぼる広島・長崎市民の無差別大量殺戮、それに続く815日の日本の降伏を、日本軍国主義ファシズムに対する「自由と民主主義の勝利」と米国は誇り高く主張した。同時に、トルーマン大統領は、戦争終結を早め「多数の民間人の生命を救うため」に原爆を投下したと述べて、アメリカ政府が犯した重大な戦争犯罪の責任をごまかす神話を作り上げた。核兵器による2つの都市の徹底的な破壊とあらゆる生き物の殺戮という残虐極まりない戦争犯罪に対する非難は、同年810日に日本政府がたった1回出した抗議声明以外、世界のどの国の政府からも出されなかった。かくして、「自由と民主主義の勝利」という正義達成目的のために使われた犯罪的手段である核兵器もまた、正当化されてしまった。そのため、核兵器そのものの犯罪性が、その後、厳しく追及されないまま今日に至っているのである。       

  

  その犯罪性が追及されなかったため、「正義は力なり」という米国の本来の主張は、核兵器という大量破壊兵器を使ったことによって、実際には「力(=核兵器)は正義なり」とサカサマになってしまったことを暴露する機会が失われてしまった。その結果、ニュールンベルグ法に照らせば、核兵器使用は「人道に対する罪」であり、核抑止力は「人道に対する罪」を犯す準備・計画を行う犯罪行為=「平和に対する罪」であるという核兵器の本質が、いまだに明確に普遍的な認識となって世界の多くの人々に共有されていないのである。



  原爆の犯罪性が厳しく問われなかったことから、その犯罪の犠牲者である被爆者の戦争被害の実態も長年にわたって無視され、70年たった今も多くの被爆者が原爆症認定や援護を受けるために苦しい裁判闘争を余儀なくされている。その一方で、日本では、被爆者は政治的には「原爆被害者」として「聖化」され、米国政府の責任も核抑止力の犯罪性も問わないままで「究極的」核兵器廃絶というスローガンだけを唱え続ける政治家や御用学者に、核被害のシンボルとして都合良く利用され続けている。このように原爆の犯罪性を不問にしたこと、その結果、放射能汚染被害を甚だしく軽視し、日本も核兵器製造能力を持つことを目指したことなどが、無批判で安易な原子力利用の導入・拡大を許し、結局は福島原発大事故を引き起こし、再び数多くの被曝者を出すことにもなってしまった。



  一方、日本は、1945815日に発表した「終戦の詔勅」(天皇裕仁のメッセージ)で、「敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ(敵は新たに残虐な爆弾<原爆>を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。 にもかかわらず、まだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう)」と主張。「原爆投下」だけを降伏決定要因とし、15年という長期にわたってアジア太平洋各地で日本軍が犯した様々な戦争犯罪や、アジア各地で起きていた抗日闘争を徹底的に無視するどころか、戦争は「アジア解放」のためであったとの自己正当化のために原爆被害を利用した。かくして戦争犠牲者意識だけを煽ることによって、裕仁自身をはじめとする戦争指導者の侵略戦争の責任はもちろん、日本国民がアジア太平洋のさまざまな民衆に対して負っている責任をも隠蔽する手段の一つに「原爆投下」を、いわば逆手にとって利用したのである。こうして、アメリカ政府同様に、日本政府もまた原爆殺戮を政治的に利用して、自国の戦争責任を隠蔽した。



日米共同謀議による「日本の戦争責任意識欠落」状態の創出

  「日本の戦争責任意識欠落」にさらに大きな影響を与えたのが、南京虐殺やマレー虐殺などの被害者を含む2千万人をはるかに超えるアジア人を犠牲者にし、それに加えて35千人を超える連合軍捕虜を様々な残虐行為で犠牲者にし、310万人という日本人戦没者を出した日本帝国陸海軍の最高責任者・大元帥であった裕仁の重大な戦争責任を不問にしただけではなく、彼を「戦争犠牲者=平和主義者」にでっちあげたことであった。



  このことは、上に述べた「詔勅」の文章にはっきりと現れている。「詔勅」を一読してみれば明らかなように、そこでは、侵略戦争の責任、植民地支配の責任、自国の兵員と市民を「犬死に」させた責任、これら一切の責任が不問にされ、裕仁は自分の責任も国家責任も完全に無視しているのである。



  しかも裕仁は、「朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス(私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである)」と述べて、自分は実は「軍国主義者」などではなく、「平和主義者」なのだということを印象づけようとしている。こうして、一見、本来は自分が平和主義者であると見せかけながら、実は「神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ(神の国である自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け)」よ、と述べているように、敗戦によっても、日本が「神」である自分を国家元首に戴く「神州不滅の国」であることに変わりがないことを再確認している。その再確認の上に、日本社会を徹底的に破壊した自分の責任は棚に上げて、国民に対しては、「お前たちには、神の国の復興に努力する責任がある」と、一方的に要求しているのである。



  この点をとらえて、小田実は実にみごとに「詔勅」の特徴を以下のように分析している。

「終戦詔勅」には歴史に切れ目を入れる意図はない。それどころか逆に「戦前日本」を強引に「戦後日本」へ結びつけようとする懸命の企てだった。ただ、この企てに不都合なことがひとつあって、それは、「戦前日本」が「軍事日本」「戦争日本」でもあれば、その頂点に立つ「昭和」天皇が「軍事天皇」「戦争天皇」であった事実だ。

ここでぜひとも必要なことは、天皇が「軍事天皇」「戦争天皇」から「平和天皇」に「転向」することだった。この場合、もっとも好都合な論理、倫理は、もともと天皇は平和愛好者の「平和天皇」であったのに、軍部の「軍国主義」者どもに取り巻かれて心ならずも「軍事天皇」「戦争天皇」の道をいくぶんでもとらざるを得なかったというものだったろう。この論理、倫理のアメリカ合州国側内部における展開によって天皇は「戦犯訴追」を免れたのだが、戦後、しつこく行われて来たのが、この論理、倫理の展開だった。

               (小田実著『被災の思想 難死の思想』、強調:田中)

すなわち、裕仁の戦争責任不問と「平和主義者」というデッチアゲは、米国政府の介入なしでは実現しなかったことなのである。



  米国によるこうした裕仁の政治的利用が、ごく一握りの数の日本帝国陸海軍指導者ならびに戦時政治指導者だけを戦争犯罪人として東京裁判で裁くことで、彼らにのみ戦争責任を負わせたことと密接に関連していたことはあらためて詳しく説明するまでもないであろう。しかし、「日本の戦争責任意識欠落」状態創出には、占領軍GHQが、こうした裕仁=天皇制の政治的利用ならびに東京裁判と同時並行で行った「日本人再教育プログラム」も大きく影響していたことについてはあまり知られていない。



  実は、GHQが行った「日本人再教育プログラム」の一つである「アジア太平洋戦争の真実」情報拡散作戦も、日本人の(日本はアメリカを初めとする連合国に負けたのであり、中国に負けたわけではないという)戦争観形成と責任意識(特にアジア諸隣国の市民に対する加害責任)の欠落に大きく貢献した。GHQは、1945年末から日本の全国版新聞ならびにNHKラジオ放送を通して連続報道『これが真実だ』を流したが、その内容を簡潔にまとめてみると以下のようになる。

 A)アジア太平洋戦争の発端を1931年の満州事変であると見なし、日本の中国侵略・日中戦争と真珠湾攻撃から始まる太平洋戦争の継続性を一応は認めていながらも、日本による朝鮮・台湾の植民地化の歴史的経緯と両国国民が受けた様々な被害については完全に無視。

 B)日本を降伏させた米軍の役割が大きく強調され、15年間も戦った中国軍や4年間抗日闘争を行った東南アジアの抵抗組織の役割は完全に無視。唯一の例外は、米軍に協力したフィリッピン・ゲリラ部隊についてのごく簡単な言及のみ。

 C)ごく少数の日本軍指導者の戦争責任のみが強調され、天皇裕仁と宮内庁スタッフ、財界・メディア有力者たちは、軍人と比較して、「穏健派」と称された。それらは、「裕仁=軍人に利用された戦争被害者」というイメージ作りに貢献。

 D)日本軍指導部が戦争の悪化状況を国民に隠し、その結果、空襲・原爆で国民が大被害を受けたという点を強調したため、国民は軍指導者たちに騙された「被害者」であるというイメージが浸透し固定化していった。騙すような政府を支持した自分たちの責任については、したがって考えないようになってしまった。日本が朝鮮・台湾・満州の植民地化を経て侵略戦争へと突き進んでいった日本政治社会の構造そのものについては、「再教育プログラム」には含まれず、結局は無視されてしまった。



  テレビが全く普及していなかった当時、主要メディアであるラジオと新聞で全国に流された戦争の「真実」に関する情報が、一般国民の「戦争観」形成に与えた影響がどれほど大きなものであったかについては詳しく説明する必要はないであろう。こうした「再教育プログラム」の結果、1952年のサンフランシスコ平和条約発効に伴い日本が主権を回復した時点では、すでに「原爆正当化論受け入れ(「原爆投下はしかたがなかった」)」と「アジア太平洋戦では米国とその連合諸国に敗れた=アジアへの加害責任の欠落」という2つの考えが日本国民の意識の間に広く且つ深く浸透してしまっていたわけである。戦争をもっぱら「自己被害」の立場からしか見ない日本人の意識は、1950年代から世に出された多くの文学作品や映画作品(例:『俘虜記』、『野火』、『きけわだつみの声』、『ビルマの竪琴』、『私は貝になりたい』、『ゴジラ』など)でもさらに強化され続け現在に至っている。一方、中国やその他のアジア太平洋地域で日本軍が犯した残虐行為を暴き出すような文学・映画作品(例:五味川純平著『人間の条件』)は非常に稀である。



日米共同謀議に由来する「歴史認識欠如」と「天皇制」  

  このように、一方では日本政府が、アメリカの核兵器大量殺戮の正当化を受け入れ、同時に「戦争終結の理由」としてそれを政治的に利用しただけではなく、その後も現在に至るまで米国の核戦略を支持し、いわゆる「核の平和利用」=原発推進政策をがむしゃらに維持することで、事実上は米国の核兵器保有と「核による威嚇」を支持するのみどころか、米国にそうした核利用の持続を要望しているのが現状である。他方、米国側は、「裕仁は平和主義者」というデッチアゲを受け入れ、彼の戦争責任を日本側が隠蔽することに積極的に加担し、天皇制を存続させて、それを日本占領政策に、さらには占領終了後の日米安保体制下での日本支配のために利用し続けてきた。



  こうした日米両政府による共同謀議の画策ゆえ、大多数の日本人はアジアに対する確固たる「戦争責任」意識を持つどころか、自分たちをもっぱら「戦争犠牲者」と見なし、しかしながら、同時に米国による自分たちへの戦争加害の責任も問わないという、「戦争責任問題」自覚不能の状態にある。すなわち、これまで、自分たち自身が被害者となった米国の原爆殺戮犯罪の加害責任を厳しく問うことをしてこなかったゆえに、我々日本人がアジア太平洋各地の民衆に対して犯した様々な残虐な戦争犯罪の加害責任も厳しく追及しない。自分たちの加害責任と真剣に向き合わないため、米国が自分たちに対して犯した由々しい戦争犯罪の加害責任についても追及することができないという、二重に無責任な姿勢の悪循環を産み出し続けてきた。それゆえにこそ、米国の軍事支配には奴隷的に従属する一方で、アジア諸国からは信頼されないため、いつまでたっても平和で友好的な国際関係を築けない情けない国となっている。つまり、一般の日本人に現在も広く見られるこの極めて偏った「被害者偏向歴史認識」、と言うよりは正確には「歴史認識の欠如」は、このように、日米共同謀議の結果であって、日本人が、あるいは日本政府が独自に作り出したものではないことをはっきりとここで再確認しておく必要がある。したがって、我々は、この二重の意味での「過去の総括」をしない限り、真の意味での「過去の克服」を成し遂げることはできないのである



  戦前・戦中は天皇制に奴隷的と言っても過言ではないほど精神的に自分たちを従属させていた日本人(とりわけその天皇制の中で大いに権益を享受していた軍人、政治家、官僚たち)は、敗戦を迎えるや、今度は「自由と民主主義」を持ち込んだ米国に、「自由と民主主義」の本質をなんら真剣に問うこともなく、この日米共同謀議による「被害者偏向歴史認識」と「象徴天皇制に基づく民主主義」という「新社会体制」を喜んで受け入れ、天皇制は基本的にはそのまま維持しながら、天皇の代わりに今度は米国に奴隷的に追従することになんら自己矛盾を感じないという変身の素早さをみせた。この変身にこそ、「原爆無差別虐殺正当化」と「天皇免責」の両方を全面的に受け入れることが必須条件であった。そのような変身を遂げた代表的な人物の一人が、安倍晋三の祖父、岸信介であったが、岸の場合は、「天皇免責」どころか、「自己の戦犯免責」という驚くべき変身を同時に成し遂げた政治家である。その意味で、岸は、上に述べた「二重の意味での無責任」どころか「三重の無責任」を身を以て証明していた人物であった。



  かつて加藤周一は、敗戦から1年も経たない19463月に発表した論考で、天皇制と軍国主義の相互関連性を厳しく批判して、次のように述べた。

若し天皇制がなかったならば、あれ程深刻な批判精神の麻痺はあり得なかった。若し天皇制がなかったならば、個人の自由意志を奪い、責任の観念を不可能にし、道徳を頽廃させ、愚劣にして奴隷的な沢山の兵隊の培養地をつくったあの陰鬱な封建的家族制度はあり得なかった。………. あれ程明らかな帝国主義政策を何等の批判なしに強行することも、あれ程不合理な、あれ程白痴的な無数の軍国的デマゴーグを国中に氾濫させることも、そして就中あれ程狂信的な軍閥を何もかも破壊する程強大になるまで育てあげることも、不可能であったにちがいない。(加藤周一著「天皇制を論ず — 問題は天皇制であって、天皇ではない」)

それゆえ加藤は、「天皇制は戦争の原因であったし、やめなければ、又戦争の原因となるかも知れないから」、天皇制は「やめなければならない」と、反論の余地がないほど極めて簡潔にして確信的な論調と、力強い言葉で喝破した。



  同じ論考の中で、加藤はまた、「若し天皇制がなかったならば、あれ程極端な歴史の歪曲はあり得なかった」とも述べて、「天皇制」が「極端な偏向歴史認識」を産み出す必然性をも指摘した。その11年後の1957年、「天皇制」と「歴史認識」の関連性について、加藤は別の論考で以下のように述べた。

私は敗戦による一種の革命が唯外部から起り、まったく内側から支えられていなかったというつもりはない。しかし大部分の国民にとって、外部からの変化として受けとられたという事実を強調しておく必要があると考える。何故なら、歴史的意識は、おそらく一つの世界をその内側からくずし、別の世界を築き上げようとする経験の蓄積を通じてしか獲得されないものだろうからである。その時現在の権威は来るべき権威によって否定される。現在の世界の中心は、次の世界の中心が発見され、ひそかに強められ、その影響の範囲を拡大して後に、はじめて除かれる。一七八九年に旧制度は仏国民の心の中では死んでいたのだ。しかしそれは一九四五年の日本の状況ではなかった。………

….. 国内の民主的勢力が望んだのは、天皇の絶対権威が否定されることであった。しかし実際に国民の大多数の意識の中で否定されたのは、天皇の権威ではなく、権威そのものであった。……. 民主主義の一面は、敗戦後十年の間に、深く抜き難い根を下ろしていったが、それは一面においてであり、具体的な個々の場合においてであって、それが天皇の権威に変り、あらゆる価値を支える原理としてではなかった。国民の大多数 …….. には、未だにそういうものとしてしか民主主義は受け入れられていない。(加藤周一著「天皇制と日本人の意識」)



  「天皇制」は法制上の形式としては一応「民主化」されたにもかかわらず、残念ながら加藤が鋭く指摘したように、社会的価値体系としては依然として日本社会の根底に広く根をはり続けており、したがって、敗戦後70年を経た今も日本政府と大多数の日本人の「歪曲された歴史認識」を支えるバックボーンとなっている。それゆえ、我々が徹底した「過去の克服」を成し遂げるためには、制度としての「天皇制」だけではなく「社会的価値体系」(武藤一羊の表現を使えば「帝国継承原理」)としての「天皇制」解体が必要であるということもはっきりと認識しておかなければならない。すなわち加藤が「未だにそういうものとしてしか民主主義は受け入れられていない」と表現した1957年段階での日本の民主主義は、今もなお「社会的価値体系としての天皇制」と「歪曲された歴史認識」を社会構造と社会意識の両面で深く引きずっている現在の「民主主義」の姿なのである。



結論:安倍政権による民主主義体制の破壊と戦争準備 

  したがって、「三重の無責任」という「帝国継承原理」を身を以て具現化していた人物の孫である安倍晋三が、祖父のA級戦犯容疑者という汚名を消し、「帝国継承原理」を単なる「継承」ではなく「新しい帝国原理」として、パックス・アメリカーナの衰退とグローバル化が進む錯綜したこの現代に復活できるという誇大妄想的な幻想で、様々な時代錯誤的な政策の推進をはかっているというのが、現在の日本の状況なのである。残念ながら、日本の「民主主義」は、そのような「新しい帝国原理」の導入を可能とさせるものとしてしか、「国民の大多数には受け入れられてこなかった」のである。



  安倍晋三政権が、軍性奴隷制度や南京虐殺など日本軍による残虐行為の歴史事実に関する記憶そのものを抹殺することで、侵略戦争の歴史を正当化しようとやっきになっている背景には、こうした日本の「民主主義」の歴史構造的な重大な問題が横たわっている。このような「民主主義」の下で、安倍政権は、「過去の邪悪な戦争の正当化」、すなわち「過去の克服の失敗」にみごとに陥っており、そのことが現在と未来に関する偽装欺瞞政策をも産み出しており、明らかな違憲行為である集団的自衛権行使用容認やその他の戦争法制の整備を通して「将来の戦争を正当化」し、ナチス政権がやったと同じように、事実上、憲法をすでに「棚上げ状態」にしている。かくして安倍政権は、過去の侵略戦争の正当化を通して現在の「永続的戦争状態」をさらに継続・推進することで、日本の民主主義体制の全面的解体作業をますます強め、日本社会破壊への暴走を加速させている。



  加藤周一は、1947年に発表した「知識人の任務」題した短い論考で、「戦争を正しい意味で体験しなかった者が民主主義革命の意味を正しく理解する可能性は、寸毫もない」と述べた。同じように、「戦争を正しい意味で理解しない者が民主主義の意味を正しく理解する可能性は、寸毫もない」と言えると私は考える。「戦争を正しい意味で理解しない」どころか、「戦争を極端に歪曲している」安倍には、「民主主義を正しく理解する」能力が全く欠落している。そのような人物が、敗戦70年にあたって日本を代表する「政府談話」を発表すること自体が無責任極まりないことである。



  日本が「過去の克服」を成し遂げることは、日本政治社会の現状を考えると、容易なことではない。しかし、これまで詳しく述べてきたように、日本の「民主主義」を真に「民主的」なものに改革していくためには、「過去の克服」なしには不可能である。我々は、そのような「過去の克服」のための市民の責任として、安倍の壊憲計画と戦争法案を廃棄させ、近く発表を予定している「安倍談話」の欺瞞性と無責任性を厳しく批判していく必要がある。



  






2015年7月16日木曜日

ドイツからの報告(2)


79日(木曜日)お昼前に、知人の車でベルリンを離れ、北に2時間半ほど走りました。到着した所は、メクレンブルグ西ポメラニアと呼ばれる地域にある、湖の多いヴァイセンシーという場所の森の中にある知人の別荘。森に囲まれた湖畔に別荘があるというすばらしい所でした。東西ドイツ統一後、旧東ドイツ地域の不動産を西側の人間が安く買えた時期があったようで、私の知人も10ヘクタールという広い土地を持っています(旧東西ドイツ間では今もまだ経済格差がかなりあるような印象を受けました。)彼はここに野外彫刻美術館=「彫刻の森」を開設する計画をすすめていますが、果たしてうまくいくかどうか….。ここで一泊し、翌日10日(金曜日)朝、この知人の車でさらに1時間半ほど北に向かって走り、ギュストロという小さな城下町(人口28千人)まで送ってもらいました。

なぜこんな小さな田舎町にまで私がわざわざ足を延ばしたかというと、ここに、ナチスに迫害された反戦彫刻家エルンスト・バルラハ(1870~1938)の美術館と、かの有名な彼の彫刻「空中に浮かぶ天使」が展示されている教会Domがあるからです(バルラハならびに彼の作品「空中に浮かぶ天使」についての簡単な説明は、今年3月にこのブログに載せた私の「講演録」を参照して下さい)。バルラハの美術館は、ギュストロ郊外の森の中の、元々彼の自宅兼アトリエだった建物とそれに隣接する新しい建物からなる美術館と、街中の古い小さな元はチャペルであった建物を利用した美術館の2つがあります。小規模ながらかなり立派な中世のお城が町の中心部にあるとはいえ、町自体はとても小さくて、お城とバルラハの美術館の他にはほとんどなにも観光スポットといえるものはありません。私は丸1日この町に滞在しましたが、美術館も教会にもほとんど訪問者はおらず、街中も閑散としていました。1910年、40歳になったバルラハがなぜここに仕事場を置いたのか、勉強不足の私は知りませんが、静かな田舎町なので、仕事に専念するには理想的な場所だったことは確かです。

元アトリエには、ナチスによって取壊された「マクデブルグ戦没者記念碑」のマケット(彫刻の模型)など、彼の代表的な作品が数多く展示されています。この建物に隣接されている新しい、きわめて現代的な素晴らしいデザインの建物には、彫刻の他に、彼が数多く残したデッサン画や版画類が展示されています。バルラハの作品には、逞しい農民やそれとは対照的な悲しみに打ちひしがれた貧民など、庶民の喜怒哀楽をテーマとして表現したものが多いのですが、現在展示中の版画の中には彼が書いた戯曲の挿絵に使われた「魔女」を描いたものがたくさんありました。「魔女」とはいえ、バルラハの作品らしい、とても人間味溢れた愉快な「魔女」たちです。


元アトリエに展示されている彫刻作品
「空中に浮かぶ天使」は、天使の顔がケーテ・コルビッツの顔をモデルにしていることは一見して分かります。しかしながら、1200年代にまでその設立の起源をたどることができるこの古い中世スタイルの教会に、このような現代的な彫刻が展示されていることに、不思議なことに、なんら違和感を感じません。彫刻の真下の床には丸く切った大きな石(直径1.5メートルほど)が置かれており、その内側に「1914~1918」、外側に「1939~1945 IMGEDENKEN」と刻まれており、この彫刻が第1次世界大戦と第2次世界大戦を記憶するものであることが明示されています。写真でしか見たことのなかったこの「天使」を、実際に眼にすることができて感激でした。
『空中に浮かぶ天使』









『天使』の下に置かれた石板
その日はギュストロに一泊。翌日711(土曜日)早朝に、ギュストロを離れ、電車(各駅停車の列車しか走っていません)で西に2時間ほどかけて古い港町リューベック(現在人口は21万人ほどの小さな観光都市)に移動。歴史あるこの小さな都市は、中世から近代にかけてはハンザ同盟の貿易港として栄えたようです。運河に囲まれ古いレンガ造りの家並みが続く旧市街地は、美しい中世都市の雰囲気を現在も保っており、古い由緒ある教会が6つほどあります。

そのうちの一つであるキャサリーネン教会の正面の壁に設置する16人の「聖者」の彫刻の製作を、バルラハは依頼されました。ところが、1931~2年に3体を完成させた後で、彼はナチスに「退廃芸術家」と非難され、作品製作・展示を禁止されました。そのため、完成した3体も設置できなくなりました。その3体は「風の中の女」、「松葉杖をつく乞食」、「歌う尼僧」と題された彫刻です。通常、教会の建物内や外壁に設置される「聖者」は、広く世に知られた高僧たちですが、バルラハにとって「聖者」とは、名もないごく普通の人間であり、とくに身体障害者である「乞食」であったわけです。松葉杖をつくこの「乞食」の彫刻は、ギュストロの上記2つの美術館にも展示されている、バルラハの代表的な作品の一つです。幸いにしてこれら3体の「聖者」彫刻は破壊されなかったため、戦後1948年になってキャサリーネン教会の正面の壁に取付けられました。さらに、バルラハの弟子が戦後その仕事を受け継いだと聞いていますが、実際に私が見た限り、教会の壁にはバルラハ自身が製作した3体を含め、全部で9体しか設置されていません。当初の16体の「聖者」製作計画がなぜ今も完了されていないのか、もう少し調べてみないと私には分かりません。
バルラハ製作の聖者3体

キャサリーネン教会正面 外壁全景
  少し話がそれますが、リューベックは、トーマス・マンと彼の兄ハインリッヒ・マンという偉大な作家兄弟や、ヴィリー・ブラントという傑出した政治家を産み、最近亡くなった作家ギュンター・グラスが仕事場を置いていた街です。マン兄弟とブラントはナチスに抵抗し、グラスは78歳になった2006年になって自分がナチス武装親衛隊の隊員であったことを告白する自伝的作品玉ねぎの皮をむきながら』を発表して、大きな波紋を呼びました。なぜ北ドイツの伝統ある古い小さなこの港湾都市に、このように優れた知識人が産まれ育ったのか、あるいは生活の基盤を置いたのか、その歴史社会的な背景を知ることに興味が湧きます。こんな小さな都市からノーベル文学賞受賞者2人、ノーベル平和賞受賞者1人を出しています。とりわけ、少年期からリューベックで労働運動に関わって驚くべき文才を発揮し、強靭な社会主義思想に裏打ちされた政治哲学で、戦時中は反ナチス地下運動を、戦後は「過去の克服」と「東西和解」運動を一貫してすすめたヴィリー・ブラントが、リューベックでどのような幼少年期をおくったのかに、私はひじょうに興味があります。ブラントが首相になっていなければ、ドイツの「過去の克服」が、現在のような徹底したものにまでなっていたかどうかは疑問だと私は思っています。

712日(日曜)は、列車とバスを乗り継いで約1時間半、リューベックからさらに北にある海岸沿いの保養地、シーズマーという小さな町を訪れました。その目的は、訪問する約束を数ヶ月前からとっていた、ここに窯場を持つドイツ人の陶芸家、ヤン・コルビッツに会うためでした。「コルビッツ」という名前でお分かりのように、彼はかのケーテ・コルビッツともちろん関係があります。実は、ヤンはケーテのひ孫にあたる人です。ケーテにはハンツとペーターの2人の息子がいましたが、ペーターを第1次世界大戦でなくしたことは私の3月の講演でも説明した通りです。ヤンは、ハンツ(父親と同様に医者)の孫にあたります。ハンツの息子、すなわちヤンの父親も医者で、現在93歳の高齢ですが、すこぶる元気でベルリンに住んでいるとのこと。ヤンは今年55歳になりますが、まだ20歳代の1986~87年の2年間、私の生まれ故郷の福井の越前焼の窯場で修行しました。私は、当時はオーストラリアのアデレード大学で教えており、年に1回は日本に帰国し福井にも戻っていましたが、ヤンが福井にいたとはもちろん全く知りませんでした。ヤンは1988年からシーズマーに移り住み、ここに日本から陶芸用の窯を製作する専門家に来てもらって、「穴窯」を自宅の裏庭に設置。それ以来、ここで越前焼の作品製作に打ち込んでいます。

100年前に元々は修道院として建てられた大きな建物の2階が自宅、1階は自分の作品を展示するギャラリーと、大きな暖炉を備え日本の重厚な茶箪笥が置かれたすばらしい自宅食堂となっています。

彼の作品はどれも、典型的な越前焼の見事な色合をもったひじょうに美しいものばかりですが、私は、とりわけ大壺が素晴らしいできだと思いました。彼の作品は、今や、ヨーロッパやアメリカのギャラリーで高額で販売されており、ドイツ国内やアメリカの美術館にも納められています。残念ながら、高額のこんな大壺を購入してオーストラリアまで送る金銭的余裕は私にはとてもありませんので、小さな湯呑みを一つ買わせてもらいました(苦笑)。
ヤン・コルビッツのギャラリー

ヤン・コルビッツ作の大壺



  ヤンの顔はケーテの顔にひじょうに似ており、私がそのことを彼に言うと、「みなさんにそう言われます」と笑っていました。ヤンは若い頃は彫刻を作るのが好きで、一時期、彫刻家になろうかと真剣に考えたこともあるそうですが、ケーテと常に比較されるのは避けられないであろうという恐怖心から、全く違う陶芸の道を選んだとのこと。陶芸家になって本当に良かったと、実に幸せそうに笑っていました。そのヤンに聞いて初めて知ったのですが、ベルリンだけではなく、ケルンにも「ケーテ・コルヴィッツ美術館」があるそうで、実際には、ケルンの美術館のほうがベルリンのものより所蔵作品がずっと多く、建物も立派だそうです。なぜケルンにそれほど多くのケーテの作品が残されたのか、その理由をヤンに聞くのを忘れてしまいましたが、次回ドイツに来る機会があったら、ぜひともケルンにまで足を延ばしたいと思います。
食堂の壁に飾られているケーテ・コルビッツの自画像
日本茶とマーズパン(リューベック特産のお菓子)をご馳走になった食堂には、ケーテの自画像が飾られていました。裏庭の穴窯を見せてもらったり、コルビッツ家の歴史についていろいろな逸話を聞かせてもらったりして、3時間半余りお邪魔をして、本当に楽しいひと時を過ごさせてもらいました。

ケーテ・コルビッツの美意識が、ヤンというひ孫を通して、しかも越前焼という陶芸美の形をとって継承されていることに、とても不思議な気がすると同時に、しかしひじょうに嬉しい思いがしてなりません。芸術の深さと面白さをあらためて教えられた、収穫の多い旅となりました。
穴窯前のヤン・コルヴィッツと私

2015年7月7日火曜日

ドイツからの報告


私は先週水曜日からドイツに滞在中です。
先週木曜日7月2日から土曜日4日までは、ハンブルグ社会研究所主催の国際会議Against Our Will - Forty Years after: Exploring the Field of Sexual Violence in Armed Conflict(踏みにじられた意思 40年後の今:武装紛争時における性暴力問題を考える)に出席しました。この会議は、私もメンバーの一人になっている、ハンブルグ社会研究所の軍性暴力研究プロジェクト・チームが昨年から開催計画を進めてきた会議でした。世界各国から80名ほどのフミニスト学者・活動家がこの会議に出席しました(男の出席者は私を含めてわずか4名ほどでした。日本からは中原道子さん<早稲田大学名誉教授>と渡辺美奈さん<女たちの戦争と平和資料館>の2人が出席されました)。会議のタイトルAgainst Our Willは、今から40年前の1975年に出版された、スーザン・ブラウンミラー(現在81歳)というアメリカのフミニスト活動家が執筆した本のタイトルをそのまま使いました。
Against Our Will: Men, Women and Rape 1975
もちろん、スーザンから許可をもらって会議のタイトルに使っただけではなく、実は、この会議は彼女の本の出版40周年を記念して開催するという意味も含めたもので、したがって、スーザンを基調講演者としてニューヨークから招待しました。この本は、世界の各地で行われている「強姦」の様々な形態、とりわけ戦争/紛争時における「強姦」の具体例を網羅的に分析し、「強姦」は男にとっては「武器」であるという鋭い批判的論理を打ち立てた、当時としては画期的な著作でした。たちまち欧米各国で話題となり、その後これまで長年にわたって世界各地のフェミニスト運動に多大な影響を与え続けてきました。この本は、これまで30カ国語以上に翻訳されていますが、日本語版も2000年になってようやく出版されました。日本語版は『レイプ踏みにじられた意思』勁草書房 ですが、残念ながら、日本では女性の間でもあまりよく知られていないようです。南京虐殺時の大量強姦、軍性奴隷制による無数の女性虐待、さらに現在増加し続ける家庭内暴力、ストーカーなど、女性に対する様々な性暴力問題を抱えている日本で、世界で広く読まれてきたこの本の翻訳がこれほどまでに遅れ、出版された後もあまり読まれていないのはなぜでしょうかね。考えてみる必要があると思います。
ハンブルグでのスーザンの「基調講演」は、彼女が一方的に講演するという形をとらず、研究プロジェクトのドイツ人メンバーであるガビー・ジップフェルと私の2人が、出席者全員の前で、この書著に関していろいろスーザン本人に質問するという対談形式をとりました。そのほうが、講演を一方的に聴くよりはおもしろいのではないかという考えから、こうした形式をとりました。その内容については、近くウエッブに載ると思いますので、その折また報告します。
実は、スーザンは、私が2002年に出した慰安婦問題の英文拙著の「まえがき」を書いてくれた人です。その著書はJapan's Comfort Women: Sexual Slavery and Prostitution During World War II and the US Occupationです。しかし、これまで彼女とはメールでしか交流がなかったので、実際に会うのは初めてでした。本からは「こわい女性」というイメージを受けるのですが、実際に会ってみると、実に柔和で、気さくで、おしゃべり好きな「おばあさん」という感じの人です。しかし、一旦、性暴力について話し出すと、様々なアイデアでとうとうと持論を述べる、元気いっぱいの人です。本当に感激しました。
 
スーザン・ブラウンミラーと私(ハンブルグにて)
この会議では、アフリカ、アジア、ヨーロッパにおける様々な戦争/紛争時における性暴力のケースについての研究報告が行われました。その中で、私が特に関心をもった発表は、ボズニア・ヘルツェゴビナ紛争での「民族浄化」という名称で行われた大量強姦の被害者女性たちの現状についてでした。紛争が終わってから20年たちますが、いまだに無数の犠牲者たちがPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされ続けています。しかし、そうした犠牲者に対する支援が全く不十分だという現状はほとんど知られていません。戦争が終わると、忘れ去られるのは、いつもこうした女性や子供の戦争被害者であることを、あらためて痛感させられました。
75日(日曜)にハンブルグから列車でベルリンに移動。昨日月曜日の夕方は、独日平和フォーラム、ベルリン日本女性イニシアティブの会、在独韓国人グループの共催による、「日本政府の修正主義的政策」と題する講演会で、私が「安倍政権と戦争責任問題」について、渡辺未奈さんが「安倍内閣の『慰安婦問題』政策」について講演。市民60名ほどの参加者がありました。この集会の内容についても、後日、機会があれば報告します。

この集会とは別に、つい最近、ドイツのネット・ジャーナルDigital Development Debatesに依頼されて書いた核兵器問題に関する英文拙論A Proposal from Hiroshima(広島からの提言)が数日前に掲載されました。ご笑覧いただければ光栄です。