2016年2月26日金曜日

安倍政権を「支持する」広島平和研究所


要するに、広島平和研究所は、安倍政権に「服従する」、つまり安倍政権を「支持する」研究所に堕落してしまったということを、この記事は意味しています (「服従」と「支持」の関係については、このブログの「『罪』と『責任』:ハンナ・アレントに学ぶ『戦争責任』の解釈」を参照されたし)。

恥を知るということを知らない安倍政権の下では、大学を含む日本社会のいろいろなところで、恥を知るということ知らない輩がのさばるようになってきました。 日本は、広島は、本当に恐ろしい事態になっていますね。救いがたい日本の知的荒廃は、現在の首相と閣僚たちの言動からも明白ですが、大学にもすでに現れています。広島平和研究所の状況は、その一証左です。

情けないのは、研究所や大学当局による若手の優秀な研究員に対するアカハラ的な処遇に対し、他の研究員のほとんど(私が知る限り1人だけを除いて)全員が反 対意見の声を全くあげないということ。政治的にある人間に「服従」することは本質的にはその人間を「支持」することであるという、ハンナ・アレントの言葉の重みを痛感する次第です。
2016228日更新)

以下は、私が最も尊敬する日本の評論家/活動家であるMさんとのこの数日の間のメール交信のうち、関係する部分だけを抜粋したものです。ご参考まで。

田中さん
広島平和研、ひどいですね。しかしこれが特別なケースでなくなってきていることが怖いです。 

Mさん
中国新聞記事の中で紹介されている「3月末で任期が切れる35歳の講師」とは、一度、Mさんにもご紹介したKさんのことです。「契約講師は5年が過ぎたら無期限雇用に切り替えるべし」という新法律を逆手にとって5年前に辞めさせるということが、どこの大学でもいま 繁におきているようですが、これも安倍政権の虚妄政策の現れですね。出来の悪い三流学者が、優秀な若手の研究者へのアカハラとして辞めさせるという状況。 本当に、日本はもう立ち直れないくらいひどい状況になってきているのでしょうか。一旦、社会が崩れだすと、急速に崩壊の速度が速まり、全体が崩壊してしま うという、その典型的な状況に日本は今あるのだろうと思います。これをなんとか押し止め、建て直すのは、容易ではないですね。

田中さん
昨日J. G.(アメリカの市民活動家:田中による説明)とこれも久しぶり合いましたが、Trumpjokeでなくなったアメリカはほんとうにどこにいくのか。Michael Klareという左翼軍事分析家 これも70年代からの仲間 - は、現状を第一次大戦前とのアナロジーで見ていると彼は言っていました。なにやら途方もない状況に突入したみたいです。社会崩壊の感覚はぼくも持っていて、今回の本の後書きに、それについて触れました。参考までにお送りします。感想きかせてください。

Mさん
Trumpと安倍という米日コンビはまさかの悪い冗談と考えていましたが、そのまさかの悪夢が全く不可能でもない状況になってきて、本当に恐ろしくなってきました。ご論考、読ませていただきます。
(2016229日更新)

「罪」と「責任」:ハンナ・アレントに学ぶ「戦争責任」の解釈


読者の批判に答えて:

私のブログの読者の一人から、「恨(ハン)— 不正義に対する怒り を考える」で述べた私見に対して、個人メールで以下のような質問/批判が寄せられた。私は、相変わらず執筆依頼原稿を複数抱え込んでいるため(「書けない原稿の執筆依頼をなぜ引き受けるのか」という私の連れ合いのいつもの厳しい批判はもっともなところで、返す言葉がない<苦笑>)、じっくりお応えしている時間が今はないので、ごく簡潔にではあるが、私の考えを述べておきたい。

質問/批判原爆死者慰碑の碑文、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」はマヤカシであるというご意見には、賛成するところがないのではないですが、少々言い過ぎではないでしょうか。「碑文の中の過ちとは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した争や核兵器使用などを指しています」という広島市の解説にも、一理あるように思えます。核兵器という無差別大量破壊兵器を産み出した人類の一員であるわたしたち誰にも罪があるという思いにたってこそ、反核運動が世界的な広がりを持つようになるのではないでしょうか。

応答:以下が、私の応えであるが、私の考えは、実はハンナ・アレントが自著『責任と判断』の中で展開した考え、中でも、この著作に含まれている「独裁体制のもとでの個人の責任」と「集団責任」という2つの論考で明晰に解説している「罪」と「集団責任」の違いに大きく負っていることを初めに述べておく。したがって、以下、括弧が付いている文章は、ほとんど全て、この2つの論考からの引用であることをお断りしておく。(なお、アレントの文章は極めて難解なので、できるだけ私自身の解釈に引き寄せてアレントの文章を活用しながら、分かりやすく持論を展開するつもりではあるが。)

アレントによると、実は、日本だけではなく、戦後のドイツにおいても、ヒトラー体制がユダヤ人に対して行ったことに関して「わたしたちの誰にも罪がある」という意見がかなり強くあったようである。こうした意見は「初めはとても高貴な姿勢にみえて、誘惑的なものでした。しかしこの叫びは実際に罪を負っていた人々の罪を軽くする役割を果たしただけだった」とアレントは批評し、その結果は、「わたしたちのすべてに罪があるとしたら、誰にも罪はないということになってしまう」と述べている。ひじょうに興味深いことに、これはまさに、敗戦直後に日本政府が国民に向けて迫った「一億総懺悔」と同じである。「一億総懺悔」はまさに、真に「罪を負っていた人々の罪を軽く」したどころか、多くの場合、彼らには「罪がない」ことにしてしまった。さらには、この「一億総懺悔」論を日本全国民に浸透させた結果、天皇裕仁を含めて「一億総被害者」意識を深く日本社会に根付かせてしまった。そのことは、伊丹万作が敗戦の翌年に著した「戦争責任の問題」の中の下記の有名な言葉に如実に表されている。

「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。おれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいれば、みな上の方をさして、上からだまされたというだろう。上の方へ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。」

なぜこんなことになってしまったのであろうか。「一億総懺悔」の論理展開のどこに決定的な欠陥があったのであろうか?決定的な欠陥は、「罪」と「集団責任」をゴチャマゼにしてしまったことにある。この点を指摘して、アレントは次のように述べる。「罪は責任とは違って、つねに単独の個人を対象とします。どこまでも個人の問題なのです。罪とは意図や潜在的な可能性ではなく、行為にかかわるものです。」(強調:引用者)つまり、犯罪者が法廷で裁かれるのは、その犯罪者が犯した「人間の行為」のゆえであり、「すべての人に共通する人間性の健全さを維持するために不可欠とみなされている法に違反した行為が裁かれる」(強調:引用者)のである。

もう少し具体的に考えてみよう。南京虐殺やシンガポール・マレー虐殺を犯した日本軍の「罪」は、虐殺という「殺人行為」を実際に行った日本兵一人一人の行為であると同時に、それを命令した士官や司令官の行為、さらにはそのような侵略戦争の命令を出した裕仁の「個人的行為」の問題なのである。したがって、この場合に発生する「責任」とは、あくまでもこのような個人としての「行為」の結果として必然的に発生する「個人的責任」のことである。これは、後で説明する「政治的な責任」=「集団責任」とは別のものであり、これを混同してはならない。

確かに、南京虐殺や原爆無差別大量虐殺などのような市民大量虐殺には、多くの人間が関わっているため、「集団責任」と呼べるような「責任問題」だという解釈が可能であると思われるかもしれない。しかし、この解釈は厳密には誤りである。なぜなら、虐殺の責任を問われているのは、虐殺に関与した個人個人、すなわち、虐殺に関与した大勢のグループの一人一人の犯罪行為の責任が問われているわけである。殺人集団に参加した一人一人の「殺人行為」あるいは「殺人関与」(例えば「殺人命令」)という犯罪行為が「罪」なのであって、集団それ自体、例えば軍隊という集団あるいはシステムの存在自体が「罪」でないことは明らかである。東京裁判でもニュールンベルグ裁判でも、裁かれたのはあくまでも「個人」の「罪」であって、「国家の罪」などではなかった。東京裁判で、東条英機や松井石根などの被告が問われた罪の一つに「共同謀議罪」というものがあるが、これは戦争指導者たちの「集団責任」を問題にしているのではなく、「共同謀議」に参加し、その結果、犯罪行為を行った一人一人の罪が問われたのである。つまり、「法廷で裁かれるのはシステムではなく、大文字の歴史でも歴史的傾向でもなく、何とか主義(たとえば反ユダヤ主義)でもなく、一人の人間なのだ」ということだ。したがって、例えば、私たちがトルーマンや裕仁の「戦争責任」を問題にするということは、彼らが犯した犯罪行為(=原爆無差別殺戮や侵略戦争)の「個人的罪」に対する「個人的責任」を問題にしているのであって、「国家責任」や「集団責任」を問題にしているのではないことを明確にしておく必要がある。両者を混同させてはならない。

したがって、アレントが説明するように、「自国の国民の罪について、人類の罪について、すなわちわたしたちがみずから実行しなかった行為について、罪を感じると言うことができるのは、比喩的な意味においてだけ」なのである。つまり、厳密な法的意味で「人類の罪」について「罪を感じる」などという表現は間違いなのである。よって、「道徳という観点からは、何も罪を犯していないのに自分が有罪だと感じるのは、実際には罪を犯しておきながら、自分は無罪だと考えるのと同じように、間違ったこと」だということになる。再び繰り返すが、したがって、「集団的な罪を自発的に認めることは、その意図とは反対に、何かを実際に行った人々の罪を免除するうえできわめて効果的に働いたのです。……すべての人に罪があるなら、誰にも罪はないからです」ということになる。

つまり、田中利幸という私個人には、例えば、シンガポール・マレー虐殺という犯罪に対して、個人的な罪は全くない。しかし、マレー半島虐殺に関わった第5師団(広島)の一人一人の日本兵や、その命令を下した第25軍司令官・山下奉文、さらにはそのような侵略戦争の最終命令を発した裕仁の個人的責任を、「国家責任」と解釈して、「実は、国民である私にもその責任がある」などとしてしまったら、結局は誰も大量殺人という罪に問われることはなく、その責任問題はウヤムヤにされてしまう。いや、実際に、そのようなやり方で日本の戦争犯罪の責任問題はウヤムヤにされてしまったのである。よって、アレントが自著で繰り返し述べているように、あくまでも「罪と無実の概念は、個人に適用されなければ意味をなさない」のである。

したがって、関東軍中尉であった私の父親や彼の同僚たちが中国各地で犯した様々な残虐な犯罪行為に対して、息子や娘である私たち戦後世代の人間が、そうした犯罪行為に対して「個人的責任」を負ってはいない。しかしながら、「すべての政府は、それ以前の政府のあらゆる行為と過誤に、政治的な責任を負っている」ため、その国民である我々も、国民として一人一人が「政治的責任」、すなわち国民としての「集団責任」を負っている。すなわち、「政治的責任=集団責任」というのは、法的責任というよりは、主として道徳的あるいは倫理的責任を意味する。正義に明らかに反する侵略戦争と、それに伴う様々な残虐な戦争犯罪行為という「罪」を日本帝国陸海軍という一大組織に属する一員として、上は天皇裕仁から下は一兵卒まで多くの人間が犯したという事実、この事実は、日本国家としての「政治的責任=集団責任」の問題である。この場合の「責任」は、無数のアジア太平洋諸国民の戦争犠牲者に対する「侵略戦争」としての「政治的責任」である。

「政治的責任=集団責任」は、したがって、戦争犯罪を犯した多くの諸個人のその「罪」と「個人的責任」をしっかりと把握した上で、はじめて認識されるものである。裕仁や東条英機、その他のA級戦争犯罪人、あるいはBC級戦争犯罪人の個々の「罪」を全く無視するならば、日本国家としての「侵略戦争」に対する「政治的責任=集団責任」という認識は成り立たない。つまり戦争における「個人の罪・個人責任」と「国民としての集団責任」は峻別すべきものであるが、表裏一体となっていることを忘れてはならないのである。どちらか一方だけが単独に存在するということはありえないのである。

この「個人責任」と「集団責任」をゴチャマゼにしている典型的な人物が安倍晋三である。彼は、昨年8月に出したいわゆる「安倍談話」で、次のように述べた。「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」(強調:引用者)。すでに説明したように、戦後の世代には、確かに日本軍が犯した戦争犯罪に対する直接の個人的責任はない。しかし、大日本帝国陸海軍という日本国家の軍隊が集団で犯した侵略戦争と戦争犯罪に対する「国家責任」を十分にとらないどころか、戦争犯罪を犯した事実すら否定してしまう政権に、歴史的事実を明確に認識させ、正当な国家責任をとらせることを追求しなければならない国民としての義務と「集団責任」が、戦後世代の我々にはあるということが安倍には全く理解できていない。「集団責任」とは、アレントの言葉を借りれば、「わたしたちが自分たちだけで生きているのではなく、同じ時代の人々とともに生きているという事実にたいして支払わなければならない代価」なのである。ところが、このような基本的なことが理解できない安倍のような人物が首相であれば、国民はますます「謝罪を続ける宿命を背負わされる」ということに、当の本人が気がつかず、こうした発言を堂々と行うこと自体が、日本国民にとってはひじょうに不幸なことなのである。

では、「集団責任」をとるというのは、具体的にはどうしたらできるのであろうか。この問題については、ハンナ・アレントは何ら具体的な提案はしていないが、私自身の考えは以下のようなものである。残虐な侵略戦争と戦争犯罪の被害者に対する「謝罪」は、単なる「おわびの言葉」ですませるような軽いものではないのであり、そのことに対して我々日本国民が「集団責任」をとるということは、我々の父や祖父の世代が犯した様々な戦争犯罪行為と同じ残虐行為を、我々日本人はもちろん、どこの国民にも再び犯させないように、 我々が今後長年にわたって地道に努力していくことである。「戦争犯罪防止」という、そのような堅実な「自己責任追求活動」によってこそ、加害者側は、はじめて被害者側から信頼を勝ちえることでき、「赦し」をえて「和解」に達することができる。

しかし、これまで私が説明してきたことに、次のように反論する人がいるかもしれない。日本軍の将兵たちは、大きな軍隊組織というシステムの中に無理やり取り込まれ、そのシステムの小さな歯車の一つとして動くことを強要された。したがって、残虐行為を「実行したのは個人としてのわたしではありませんでした。わたしはみずからの発意でいかなることを行う意思もなく、その力もありませんでした」と言えるのではないか、と。実際、ユダヤ人大量虐殺に加担したアドルフ・アイヒマンも、法廷で、「わたしではなく、わたしがそのたんなる歯車にすぎなかったシステムが実行したのです」と自己弁護した。

これに対してアレントは次のように反論する。「それではあなたは、そのような状況において、なぜ歯車になったのですかなぜ歯車であり続けたのですか」と。実は、裕仁も同じような言い訳をしている。「大本営が決め、閣議で了承された開戦を、天皇とはいえ、私個人が止めることはできなかった」といった内容の発言である。つまり、裕仁も、「私は大日本帝国陸海軍の歯車の一つだったのであり、本当は戦争などしたくなかった平和主義者だったのだ」、という意味の主張をしたのである。それならば、私も裕仁に問いたい。「なぜ歯車であり続けたのですか」と。

当時の状況においては「服従せざるをえなかったのだ」という主張を、私たちは常に聞かされる。これに対して、アレントは以下のように述べる。「もっとも独裁的な政府でも、専制政治でも、『合意の上になりたつ』という真理に依拠している」のであり、「合意を服従と考えているところに」間違いがあるのだと。「指導者に服従しているようにみえる人々も、実際には指導者とその営みを支援しているのです。こうした『服従』なしでは、指導者も無援なのです」と彼女は、「服従の」本質を容赦なく抉り出す。よって、「公的な生活に参加し、命令に服従した人々に提起すべき問いは、『なぜ服従したのか』ではなく、『なぜ支持したのか』という問い」なのだと。その問いを突き詰めていくならば、結局は、「戦争に加担することで殺人に手を染める」ことを拒むことができるか否かということである。これを拒むことができる人間は、「殺人者である自分とともに生きていることができない」と考える人間であり、自分の心に偽りのない「自己とともに生きたいという望み」を持ち続ける人間であるとアレントは主張する。今、同じことを我々は問われている。政治家、市民、組織、とりわけメディアが次々と安倍という政治支配体制に「服従」せざるをえない状況にある現在、我々が問うべき言葉は、「なぜ服従する」のかではなく、「なぜ支持するのか」なのであり、「殺人者である自分とともに生きていることができない」という主張をはっきりと表明することである。

急いで書いたので、十分に納得のいくような応答ができたとは思わないが、時間がないので、そろそろ結論にする。原爆死者慰碑の碑文、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」は明らかにマヤカシである。なぜなら、この碑文は、原爆無差別大量殺戮という重大な「人道に対する罪」を犯した米国の大統領トルーマンをはじめ、それに加担した多くの米国の政治家、軍人、科学者の「罪」と「個人的責任」を追求することもなく、そのような重大犯罪を犯した米国の国家責任も追求しない。さらには、アジア太平洋戦争という侵略戦争を開始し、結局は原爆無差別大量殺戮を招いた、その日本の天皇裕仁や軍指導者、政治家たちの「個人的責任」と、日本の「国家責任」もウヤムヤにしてしまっている。その「責任ウヤムヤ」は、もちろん、「唯一の原爆被害国」と言いながら、米国の核抑止力を強力に支持するだけではなく、自国の核兵器製造能力を原発再稼働で維持し続けている日本政府の「無責任」と表裏一体になっている。そんな状況を隠しておいて、「過ちとは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した争や核兵器使用などを指しています」という広島市の解説は、犯罪の「個人的責任」も「集団責任」もウヤムヤにしているのであり、これがマヤカシでなければ、なんと称するのか?!

2016年2月14日日曜日

恨(ハン)— 不正義に対する怒り — を考える


昨年末の日本軍性奴隷問題に関する「日韓合意」では、日本政府は「責任を痛感している」と表明し、日本側が10億円という資金を提供することで「最終的かつ不可逆的に解決」するという形で合意したと発表。ところが、安倍政権が「最終的かつ不可逆的に解決」という表現で具体的に要求したことは、10億円を受け取る韓国側が、これ以降、この問題を再び取り上げないという約束をまもり、且つ、ソウル日本大使館前に置かれている「慰安婦少女像」も移転させるということであった。「責任を痛感している」はずの安倍政権が、本来の被害者であるハルモニたちに対しては直接に「謝罪」表明は全くしないどころか、結局は「10億円出すから今後はこの問題については黙れ」と言っているわけである。こうした安倍政権に対する様々な批判はすでに出揃ったように思うし、近く出版されるこの問題に関する前田朗氏による編集本には、私も1章を担当しているので、ここでは詳しく議論することは避け、簡潔に要点だけを箇条書きにする。

(1) すでにほとんどの批評者が指摘しているように、この「日韓合意」は直接の被害者を完全に無視して行われたという点で、被害者の「人権」の無視、「人権の再侵害」とも言える。
(2) 日本軍性奴制の被害者は韓国人だけではなく、アジア太平洋全域にわたっているにもかかわらず、韓国以外の被害者の存在は完全に無視。安倍晋三が本当に「責任を痛感している」ならば、韓国以外の被害者に対する「謝罪」についても具体的にどのような形で「謝罪」するのかの説明をするのが当然。ところが、この「日韓合意」発表があった数日後には、台湾政府が、台湾の元日本軍性奴隷に対して日本政府が謝罪と倍賞を行うことを要求する方針を発表したが、官房長官・菅義偉は、日本政府はこの台湾の要求には応じないと答えている。「責任を痛感している」というのは、いつもの安倍流の真っ赤な嘘であることがこれで明らか。
(3) 日本軍性奴隷問題は「政治決着」できるような性質のものではなく、由々しい「人権問題」であり、いかにすれば被害者の「人権回復」につながるのかという視点からのアプローチが必要であるという根本的認識が、安倍や岸田、それに飼い犬が主人にいつも尻尾を振って媚びているような田朋美や高市早苗ら「禍我厄(カガヤクの文字化けです<笑>)女性閣僚」には最初から欠落している。
(4) 結論的に言えることは、日本の法的責任も認めない「最終的、不可逆的な解決」とは、結局、10億円という金で日本軍性奴隷の存在という歴史事実に関する記憶(本来は金では買えない記憶)を買い取り(買い取ったという形にして)、その記憶を抹消することなのである。「最終的、不可逆的な解決」とは、実にあさましい、人間として恥ずべき、低劣極まりない政治行為であることを私たちははっきりと認識しておく必要がある。
ハンギョレ新聞2015年12月30日掲載漫画
日本軍性奴隷問題を考える上で忘れてはならないことは、なぜゆえに韓国人(もっと正確な表現は「朝鮮人」であろう)に被害者が多いのかという問題である。すなわち、日本による「朝鮮植民地支配」という構造自体の中で、とりわけ「植民地女性の性の搾取」という枠組みの中でこの問題をとらえないと、日本軍性奴隷に対する「日本の責任」という問題を真に理解することにはならない。同時に、日本軍性奴隷問題は、日本の「侵略戦争」という枠組みの中でとらえられなければ、その本質を理解することはできないのである。つまり、日本軍性奴隷に対する責任問題は、被害者一人一人に対する責任問題であると同時に、究極的、本質的には「植民地支配」と「侵略戦争」に対する責任問題なのである。

日本軍性奴隷への責任否定は、したがって「植民地支配」と「侵略戦争」への責任否定と直結するのは当然なのである。このことはすでに説明するまでもなく明瞭なことなのであるが、そのあまりにも自明なことが日本の首相である安倍晋三には理解できないことが、日本にとって、日本の市民にとって、ひじょうに不幸なことである。

「植民地支配」に対する責任という点では、日本軍性奴隷以外の問題では、「強制連行・強制労働」に対する責任問題も重大である。この「強制連行・強制労働」問題は、とりわけ広島の市民にとっては重要である。広島への朝鮮人の流入は、広島県全体でみてみると1930年代後半から急増しており、1938年段階で25千人近かった人口数が、1945年段階では85千人と3.4倍に急増した。その理由は、戦争末期における日本の労働力不足を補うため、日本政府が植民地・朝鮮から、「国民徴用」という形で、多くの朝鮮人若者を日本各地に強制的に送り込んだからであり、中国地方全体でみると、広島県は山口県(1945年段階で144千人余りの朝鮮人人口)についで朝鮮人の人口流入が多かった県である。その中には、広島市内の三菱重工業広島造船所や東洋工業(現在のマツダ)で強制労働に従事されられた青年たちが多くいた。とくに、三菱重工業広島造船所の観音工場と江波工場では、(19457月末時点)総労働人員11833人のうち2800人が、つまり4人に1人が朝鮮人徴用工であった。

したがって、広島での原爆無差別大量虐殺の被害者のなかに朝鮮人が多くいたこと(総被爆者数5万人)は不思議ではなく、1945年末までの朝鮮人被爆者の推定死亡者数としては3万人という数字があげられている。すなわち、広島の16万人という全死亡者数の2割近くが朝鮮人であった。そのうえ、全被爆者の平均死亡率が37.9%であるのに比べて、朝鮮人被爆者の死亡率が60%と極めて高いことが特徴的である。

周知のように、三菱重工業広島造船所の観音工場や江波工場、東洋工業など、広島市の大規模工場はほとんどが市内中心部(すなわち爆心地)から46キロ離れた郊外地域にあったため、建物被害や機械設備の被害はそれほど大きなものではなかった。したがって、徴用工たちの間でも被爆被害者は少ないはずである。ところが、実は、当時8月の段階では、市内の建物強制疎開作業に、多くの市民や学生と同じように、朝鮮人徴用工が駆り出され、彼らも市内中心部にいたため被害者が多く出たのである。原爆攻撃直後に仲間の救出のために市内に入った多くの朝鮮人たちも放射能被曝(入市被曝)という被害を受けた。

当時20歳台前半の若者(=家族の生活を支える主要な労働者)が大半であった朝鮮人徴用工たちは、家族と無理やり引き離されて故郷から広島の地へ送り込まれ、長時間の過酷な労働に従事させられ、そのうえ原爆無差別殺傷という凄まじい体験を舐めさせられたわけである。幸運にも生き延びて故郷に帰っても、放射能被曝が原因で様々な疾患に苦しみ、貧窮生活を長年強いられるという苦渋の人生をおくらなければならなかった人たちが多い。ところが、日本政府も日本企業も、強制連行・強制労働・原爆被爆に対する償いと未払い賃金の払い戻し要求を、長年の間、拒否続けてきた。長年の裁判闘争の結果、多くの被害者がすでに亡くなっているつい最近になり、ようやく日本政府は朝鮮人を含む在外被爆者の「被爆者としての権利」を一部認めるようになったが、ほとんどの企業はいまだに「責任の認知」さえ拒否しているありさまである。こんな無責任な政府と企業をもった国の首相が、厚顔無恥にも、自国を、「民主主義の原則と理想を確認している」国家であると、20154月には堂々と米国議会で演説しているのである。恥を知らないということは、実に恐ろしいことである。

朝鮮人被爆者たちの苦闘の人生については、すでに幾つものルポタージュや研究書、関連資料が出版されているので、ご興味のある方はそれらを参照していただきたい。とくに元中国新聞記者であり広島市長職も務められた平岡敬氏の著作『偏見と差別:ヒロシマそして被爆朝鮮人』や『無援の海峡:ヒロシマの声 被爆朝鮮人の声』、市場淳子氏の『ヒロシマを持ちかえった人々』などは必見の書である。

実は、つい最近、私は、これまで手元にありながら全く目を通していなかった朝鮮人被爆者に関するある資料を読んで新しい発見をしたと同時に、その事実を知らなかったことにたいへん恥ずかしい思いをした。その資料とは、広島の在日韓国人有志グループが編集し、19898月に出版した『資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑』という資料集である。私は、これを読むまで、平和公園内にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」に刻まれている碑文の内容がどんなものであるのか全く知らなかった。碑文はハングル語で書かれており、日本語訳がつけられていないので(私が記憶している限り、慰霊碑の真下には「慰霊碑の由来」という説明はあるが、碑文の日本語訳はなかったはず)、慰霊碑の前を通るたびに、碑文の内容がどんなものであるのか気にはなっていたのであるが、真剣に調べてみようとはしなかった。本当に恥ずかしい次第である。

この慰霊碑がもともとは太田川を挟んで平和公園とは対岸側の本川橋のすぐそばに1970410日に設置されたこと、その後長年、この慰霊碑の平和公園内への移設要望を韓国人・朝鮮人被爆者団体が市側に幾度も出したにもかかわらず認められなかったこと、そして、ようやく19997月になって平和公園内の現在の場所への移設を市側が認めたという経緯については私も知っていた。しかし、碑文が、当時、ハングル学会理事でソウル大学教授であった韓甲洙氏によって書かれたものであり、ひじょうに格調高い名文であることについては、この資料集を読んで初めて知った。下に、その碑文の日本語訳の一部を抜粋する。なお、翻訳は滝川洋氏によるもので、上記の『資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑』に全文が載せられている。

「悠久な歴史を通じ、わが韓国民族は他人の物をほしがらなかったし、他民族に害を加えようとはしなかった。
(中略)
しかし五千年の長久な民族史を通じ、ここにまつった二万余の霊が経験したような、悲しく嘆かわしいことはかつてなかった。
韓民族はこの太平洋戦争を通じ、国家のない悲しみを骨身にしみるほど感じ、その絶頂が原爆投下の悲劇であった。国を失った王孫であたっため、人知れぬ悲しみと苦痛が一層大きかった公殿下を始め、名分のない戦争で、名分もなく死ななければならなかった同胞軍人、クワとカマをとって牛馬のように働かされた同胞徴用者たちは、離れ離れになって生を求め、同胞男女、少なくとも五万には達すると見られる哀れな人々、彼らは広島市民とともに、戦争の最終段階の息苦しい一九四五年八月六日、人類最大の悲劇がここに展開されたのである。
(中略)
願わくば二万餘余柱の御魂よ、すべての怨恨と憎悪をすべて忘れ、安らかに眠りたまえ。今後はこのような悲劇の種をまくものも、これを受けるものもないようにし、侵略の罪を犯すものも、侵略の悲しみを受けるものもないようにし、遠い国とも近い隣となり、永遠にお互い助け合い、親しく仲良く暮らせるようお守りください。
平和を愛し、侵略と殺りくを憎むすべての人類は、ここにまつった御魂の犠牲を心から悲しみ、永遠のめい福を祈ります。また韓国民の熱い愛情はいつまでも御魂とともにある。」(強調;引用者)

少し余談になるが、この碑文の中の「李公殿下」とは、大韓帝国皇帝高宗の孫にあたる人で、日本の陸軍士官学校、陸軍大学を卒業し、194586日当時は広島の第二総軍教育参謀中佐であった。彼は、馬に乗って本部に向かう途中、爆心地から710メートルの福屋百貨店付近で被爆し、全身創痍の火傷で苦しみながらも、本川橋近くまで逃げたところで力尽きて倒れ、うずくまっているところを当日夕方に発見されたと言われている(「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が、最初、本川橋西詰に建てられたのはこの故である)。救出したのは、当時は憲兵兵長で現在はブラジルのサンパウロに住んでおられる森田隆氏を含む数名の兵士たちであった。森田氏から私が直接伺った証言によると、発見場所は本川橋西詰ではなく、相生橋西詰であったとのこと。陸上輸送で李公殿下を市外地の病院まで搬送するのは到底無理と森田氏らは判断。そこで、相生橋下を上流に向けて逃れていく小舟を止め、乗っていた家族一家を降ろしてその小舟を押収し、それに李中佐を乗せて、両岸で無数の被爆者が重なり合って助けを求めている壮絶な状況にあった川を宇品に向けて下った。途中で出会った暁部隊の二艘の上陸用舟艇のうちの一艘に乗り換え、宇品の病院まで運び込んだとのこと。皮肉にも、小舟を押収された家族は朝鮮人一家であったとのことであるが、李中佐は翌日亡くなった。(森田氏の被爆証言には、この他にもひじょうに興味深いエピソードがたくさん含まれているが、また別の機会に紹介したい。)

話を碑文の内容に戻す。この碑文では、自分たち朝鮮人は、日本の侵略と植民地支配の犠牲者であったという事実を明確に述べており、自分たちが原爆無差別殺戮の犠牲者になったとのはその結果なのであると指摘している。興味深いことは、原爆無差別殺戮という犯罪を犯した米国の責任については一切言及していない。日米戦争という「名分のない戦争」、自分たちには関わりのない戦争のために、日本=侵略国によって「クワとカマをとって牛馬のように働かされた」のであり、その結果として、「原爆投下の悲劇」を体験させられたと、あくまでも「日本の責任」を問題にしているのである。すなわち、誰が加害者であるかを明確にした上で、「怨恨と憎悪をすべて忘れ」、「今後は……侵略の罪を犯すものも、侵略の悲しみを受けるものもないように」という強い願いを表明している。「怨恨と憎悪」とは、言うまでもなく、日本、日本人に対する「怨恨と憎悪」のことである。「怨恨と憎悪」を「忘れる」ことなどはできないであろうが、この文意は「加害者を赦そう」ということである。こうした「朝鮮人被害者」の想いに私たちは、この70年間、いったいどのような態度をとってきたのか。「赦してもらえる」ような責任のとりかたをしてきたであろうか。それを深く自問してみる必要がある。

 

韓国人原爆犠牲者慰霊碑のこの碑文と比較すると、原爆死者慰碑(公式名は広島平和都市記念碑)の碑文、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」が、いかにマヤカシであるかが明らかとなる。広島市は、「碑文の中の過ちとは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した争や核兵器使用などを指しています」と説明する。原爆無差別殺戮で多くの市民を殺傷した責任は「人類全体」などにではなく、「アメリカ政府(特にトルーマン大統領)」と同時に「日本政府と天皇・裕仁」にあることは明らかなこと(詳しくは、このブログに載せてある拙論「『招爆論から日米共犯招爆論へ」を参照されたし)。「人類全体」などという表現は一見ひじょうに高尚に思えるが、実はこうした表現を使うことで「責任の所在」をウヤムヤにしてしまい、結局は誰も「責任をとらない」ことにしてしまうのである。しかも、この表現では、加害者だけではなく、被害者が誰であったのかもウヤムヤにされている。敗戦直後に、日本政府が「一億総懺悔」ということを主張し、敗戦の責任は「日本全国民にある」ということにして、結局は裕仁や戦争指導者たち(その中には安倍晋三の祖父、岸信介も含まれる)の責任をウヤムヤにしてしまった論法と全く同じで、ゴマカシなのである。そして、この米国の戦争犯罪責任のゴマカシが、日本がアジア太平洋諸国民に対して犯した様々な戦争犯罪のゴマカシと表裏一体になっていることは、すでに私は詳しく論じているので、ここでは繰り返さない。

 

韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和公園内への移設要望を韓国人・朝鮮人被爆者団体が市側にたびたび出していたことについてはすでに述べたが、実は、京都在住の大西正之という人が、1986年から87年にかけて、当時の荒木武市長に対して、幾度もこの件で要求書を出しているのである。(大西正之という人は平和活動家であったようだが、詳しいことを私は知らない。「韓国の原爆被害者を支援する会広島支部」代表の豊永恵三郎先生が、当時、大西氏と文書交換をされていたようなので、次回豊永先生にお会いした時に詳しいお話を伺いたいと思っている。)その大西氏の要求書の文章も見事に核心をついているので、下記に抜粋する。

「朝鮮人被爆者の慰霊碑へ参りましたが、どうしたことでしょう。慰霊碑は広々とした平和公園内にではなく、平和公園の外、即ち本川橋を渡った西詰に建てられているではありませんか。正直言って驚きと怒りの気持を押さえることはできませんでした。死者までも差別するのか、同じ原爆による犠牲者までも差別するのか、あまりにも非常識な広島市の処置に心の底からの怒りを禁じえませんでした。
(中略)
『安らかに眠ってください、過ちは繰返しませぬから』と言いながら、「朝鮮」・「韓国人」被爆者慰霊碑の建立について広島は、民族差別という過ちをすでにおかしております。こんな不当な処遇を受けながら、朝鮮人被爆者がどうして安らかに眠ることができるでしょうか………
(強調:引用者)

ハングルの「恨(ハン)」という文字は、日本語の「恨(うら)み」とは異なり、「不正義に対する怒り、無念さ、悲痛さ」といった意味を持つとのこと。韓国人原爆犠牲者慰霊碑の碑文には、この「恨」という想いが強烈に込められている。大西氏の広島市長への抗議文も、まさに「恨」そのものである。

日本軍性奴隷、強制連行・強制労働に対する安倍晋三と彼の一党たちの「不正義」に対して、いやそれだけではなく、沖縄市民に対する「不正義」、戦争法導入と壊憲に向けての「不正義」、その他様々な彼らの「不正義」に対して、今、私たち日本の市民も「恨」という文字を安倍政権に突きつけ、1日でも早く安倍政権を打倒しなければ、日本は、世界中から、「不正義国家」の最も典型的な国と見なされるであろう。