2016年2月26日金曜日

「罪」と「責任」:ハンナ・アレントに学ぶ「戦争責任」の解釈


読者の批判に答えて:

私のブログの読者の一人から、「恨(ハン)— 不正義に対する怒り を考える」で述べた私見に対して、個人メールで以下のような質問/批判が寄せられた。私は、相変わらず執筆依頼原稿を複数抱え込んでいるため(「書けない原稿の執筆依頼をなぜ引き受けるのか」という私の連れ合いのいつもの厳しい批判はもっともなところで、返す言葉がない<苦笑>)、じっくりお応えしている時間が今はないので、ごく簡潔にではあるが、私の考えを述べておきたい。

質問/批判原爆死者慰碑の碑文、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」はマヤカシであるというご意見には、賛成するところがないのではないですが、少々言い過ぎではないでしょうか。「碑文の中の過ちとは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した争や核兵器使用などを指しています」という広島市の解説にも、一理あるように思えます。核兵器という無差別大量破壊兵器を産み出した人類の一員であるわたしたち誰にも罪があるという思いにたってこそ、反核運動が世界的な広がりを持つようになるのではないでしょうか。

応答:以下が、私の応えであるが、私の考えは、実はハンナ・アレントが自著『責任と判断』の中で展開した考え、中でも、この著作に含まれている「独裁体制のもとでの個人の責任」と「集団責任」という2つの論考で明晰に解説している「罪」と「集団責任」の違いに大きく負っていることを初めに述べておく。したがって、以下、括弧が付いている文章は、ほとんど全て、この2つの論考からの引用であることをお断りしておく。(なお、アレントの文章は極めて難解なので、できるだけ私自身の解釈に引き寄せてアレントの文章を活用しながら、分かりやすく持論を展開するつもりではあるが。)

アレントによると、実は、日本だけではなく、戦後のドイツにおいても、ヒトラー体制がユダヤ人に対して行ったことに関して「わたしたちの誰にも罪がある」という意見がかなり強くあったようである。こうした意見は「初めはとても高貴な姿勢にみえて、誘惑的なものでした。しかしこの叫びは実際に罪を負っていた人々の罪を軽くする役割を果たしただけだった」とアレントは批評し、その結果は、「わたしたちのすべてに罪があるとしたら、誰にも罪はないということになってしまう」と述べている。ひじょうに興味深いことに、これはまさに、敗戦直後に日本政府が国民に向けて迫った「一億総懺悔」と同じである。「一億総懺悔」はまさに、真に「罪を負っていた人々の罪を軽く」したどころか、多くの場合、彼らには「罪がない」ことにしてしまった。さらには、この「一億総懺悔」論を日本全国民に浸透させた結果、天皇裕仁を含めて「一億総被害者」意識を深く日本社会に根付かせてしまった。そのことは、伊丹万作が敗戦の翌年に著した「戦争責任の問題」の中の下記の有名な言葉に如実に表されている。

「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。おれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいれば、みな上の方をさして、上からだまされたというだろう。上の方へ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。」

なぜこんなことになってしまったのであろうか。「一億総懺悔」の論理展開のどこに決定的な欠陥があったのであろうか?決定的な欠陥は、「罪」と「集団責任」をゴチャマゼにしてしまったことにある。この点を指摘して、アレントは次のように述べる。「罪は責任とは違って、つねに単独の個人を対象とします。どこまでも個人の問題なのです。罪とは意図や潜在的な可能性ではなく、行為にかかわるものです。」(強調:引用者)つまり、犯罪者が法廷で裁かれるのは、その犯罪者が犯した「人間の行為」のゆえであり、「すべての人に共通する人間性の健全さを維持するために不可欠とみなされている法に違反した行為が裁かれる」(強調:引用者)のである。

もう少し具体的に考えてみよう。南京虐殺やシンガポール・マレー虐殺を犯した日本軍の「罪」は、虐殺という「殺人行為」を実際に行った日本兵一人一人の行為であると同時に、それを命令した士官や司令官の行為、さらにはそのような侵略戦争の命令を出した裕仁の「個人的行為」の問題なのである。したがって、この場合に発生する「責任」とは、あくまでもこのような個人としての「行為」の結果として必然的に発生する「個人的責任」のことである。これは、後で説明する「政治的な責任」=「集団責任」とは別のものであり、これを混同してはならない。

確かに、南京虐殺や原爆無差別大量虐殺などのような市民大量虐殺には、多くの人間が関わっているため、「集団責任」と呼べるような「責任問題」だという解釈が可能であると思われるかもしれない。しかし、この解釈は厳密には誤りである。なぜなら、虐殺の責任を問われているのは、虐殺に関与した個人個人、すなわち、虐殺に関与した大勢のグループの一人一人の犯罪行為の責任が問われているわけである。殺人集団に参加した一人一人の「殺人行為」あるいは「殺人関与」(例えば「殺人命令」)という犯罪行為が「罪」なのであって、集団それ自体、例えば軍隊という集団あるいはシステムの存在自体が「罪」でないことは明らかである。東京裁判でもニュールンベルグ裁判でも、裁かれたのはあくまでも「個人」の「罪」であって、「国家の罪」などではなかった。東京裁判で、東条英機や松井石根などの被告が問われた罪の一つに「共同謀議罪」というものがあるが、これは戦争指導者たちの「集団責任」を問題にしているのではなく、「共同謀議」に参加し、その結果、犯罪行為を行った一人一人の罪が問われたのである。つまり、「法廷で裁かれるのはシステムではなく、大文字の歴史でも歴史的傾向でもなく、何とか主義(たとえば反ユダヤ主義)でもなく、一人の人間なのだ」ということだ。したがって、例えば、私たちがトルーマンや裕仁の「戦争責任」を問題にするということは、彼らが犯した犯罪行為(=原爆無差別殺戮や侵略戦争)の「個人的罪」に対する「個人的責任」を問題にしているのであって、「国家責任」や「集団責任」を問題にしているのではないことを明確にしておく必要がある。両者を混同させてはならない。

したがって、アレントが説明するように、「自国の国民の罪について、人類の罪について、すなわちわたしたちがみずから実行しなかった行為について、罪を感じると言うことができるのは、比喩的な意味においてだけ」なのである。つまり、厳密な法的意味で「人類の罪」について「罪を感じる」などという表現は間違いなのである。よって、「道徳という観点からは、何も罪を犯していないのに自分が有罪だと感じるのは、実際には罪を犯しておきながら、自分は無罪だと考えるのと同じように、間違ったこと」だということになる。再び繰り返すが、したがって、「集団的な罪を自発的に認めることは、その意図とは反対に、何かを実際に行った人々の罪を免除するうえできわめて効果的に働いたのです。……すべての人に罪があるなら、誰にも罪はないからです」ということになる。

つまり、田中利幸という私個人には、例えば、シンガポール・マレー虐殺という犯罪に対して、個人的な罪は全くない。しかし、マレー半島虐殺に関わった第5師団(広島)の一人一人の日本兵や、その命令を下した第25軍司令官・山下奉文、さらにはそのような侵略戦争の最終命令を発した裕仁の個人的責任を、「国家責任」と解釈して、「実は、国民である私にもその責任がある」などとしてしまったら、結局は誰も大量殺人という罪に問われることはなく、その責任問題はウヤムヤにされてしまう。いや、実際に、そのようなやり方で日本の戦争犯罪の責任問題はウヤムヤにされてしまったのである。よって、アレントが自著で繰り返し述べているように、あくまでも「罪と無実の概念は、個人に適用されなければ意味をなさない」のである。

したがって、関東軍中尉であった私の父親や彼の同僚たちが中国各地で犯した様々な残虐な犯罪行為に対して、息子や娘である私たち戦後世代の人間が、そうした犯罪行為に対して「個人的責任」を負ってはいない。しかしながら、「すべての政府は、それ以前の政府のあらゆる行為と過誤に、政治的な責任を負っている」ため、その国民である我々も、国民として一人一人が「政治的責任」、すなわち国民としての「集団責任」を負っている。すなわち、「政治的責任=集団責任」というのは、法的責任というよりは、主として道徳的あるいは倫理的責任を意味する。正義に明らかに反する侵略戦争と、それに伴う様々な残虐な戦争犯罪行為という「罪」を日本帝国陸海軍という一大組織に属する一員として、上は天皇裕仁から下は一兵卒まで多くの人間が犯したという事実、この事実は、日本国家としての「政治的責任=集団責任」の問題である。この場合の「責任」は、無数のアジア太平洋諸国民の戦争犠牲者に対する「侵略戦争」としての「政治的責任」である。

「政治的責任=集団責任」は、したがって、戦争犯罪を犯した多くの諸個人のその「罪」と「個人的責任」をしっかりと把握した上で、はじめて認識されるものである。裕仁や東条英機、その他のA級戦争犯罪人、あるいはBC級戦争犯罪人の個々の「罪」を全く無視するならば、日本国家としての「侵略戦争」に対する「政治的責任=集団責任」という認識は成り立たない。つまり戦争における「個人の罪・個人責任」と「国民としての集団責任」は峻別すべきものであるが、表裏一体となっていることを忘れてはならないのである。どちらか一方だけが単独に存在するということはありえないのである。

この「個人責任」と「集団責任」をゴチャマゼにしている典型的な人物が安倍晋三である。彼は、昨年8月に出したいわゆる「安倍談話」で、次のように述べた。「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」(強調:引用者)。すでに説明したように、戦後の世代には、確かに日本軍が犯した戦争犯罪に対する直接の個人的責任はない。しかし、大日本帝国陸海軍という日本国家の軍隊が集団で犯した侵略戦争と戦争犯罪に対する「国家責任」を十分にとらないどころか、戦争犯罪を犯した事実すら否定してしまう政権に、歴史的事実を明確に認識させ、正当な国家責任をとらせることを追求しなければならない国民としての義務と「集団責任」が、戦後世代の我々にはあるということが安倍には全く理解できていない。「集団責任」とは、アレントの言葉を借りれば、「わたしたちが自分たちだけで生きているのではなく、同じ時代の人々とともに生きているという事実にたいして支払わなければならない代価」なのである。ところが、このような基本的なことが理解できない安倍のような人物が首相であれば、国民はますます「謝罪を続ける宿命を背負わされる」ということに、当の本人が気がつかず、こうした発言を堂々と行うこと自体が、日本国民にとってはひじょうに不幸なことなのである。

では、「集団責任」をとるというのは、具体的にはどうしたらできるのであろうか。この問題については、ハンナ・アレントは何ら具体的な提案はしていないが、私自身の考えは以下のようなものである。残虐な侵略戦争と戦争犯罪の被害者に対する「謝罪」は、単なる「おわびの言葉」ですませるような軽いものではないのであり、そのことに対して我々日本国民が「集団責任」をとるということは、我々の父や祖父の世代が犯した様々な戦争犯罪行為と同じ残虐行為を、我々日本人はもちろん、どこの国民にも再び犯させないように、 我々が今後長年にわたって地道に努力していくことである。「戦争犯罪防止」という、そのような堅実な「自己責任追求活動」によってこそ、加害者側は、はじめて被害者側から信頼を勝ちえることでき、「赦し」をえて「和解」に達することができる。

しかし、これまで私が説明してきたことに、次のように反論する人がいるかもしれない。日本軍の将兵たちは、大きな軍隊組織というシステムの中に無理やり取り込まれ、そのシステムの小さな歯車の一つとして動くことを強要された。したがって、残虐行為を「実行したのは個人としてのわたしではありませんでした。わたしはみずからの発意でいかなることを行う意思もなく、その力もありませんでした」と言えるのではないか、と。実際、ユダヤ人大量虐殺に加担したアドルフ・アイヒマンも、法廷で、「わたしではなく、わたしがそのたんなる歯車にすぎなかったシステムが実行したのです」と自己弁護した。

これに対してアレントは次のように反論する。「それではあなたは、そのような状況において、なぜ歯車になったのですかなぜ歯車であり続けたのですか」と。実は、裕仁も同じような言い訳をしている。「大本営が決め、閣議で了承された開戦を、天皇とはいえ、私個人が止めることはできなかった」といった内容の発言である。つまり、裕仁も、「私は大日本帝国陸海軍の歯車の一つだったのであり、本当は戦争などしたくなかった平和主義者だったのだ」、という意味の主張をしたのである。それならば、私も裕仁に問いたい。「なぜ歯車であり続けたのですか」と。

当時の状況においては「服従せざるをえなかったのだ」という主張を、私たちは常に聞かされる。これに対して、アレントは以下のように述べる。「もっとも独裁的な政府でも、専制政治でも、『合意の上になりたつ』という真理に依拠している」のであり、「合意を服従と考えているところに」間違いがあるのだと。「指導者に服従しているようにみえる人々も、実際には指導者とその営みを支援しているのです。こうした『服従』なしでは、指導者も無援なのです」と彼女は、「服従の」本質を容赦なく抉り出す。よって、「公的な生活に参加し、命令に服従した人々に提起すべき問いは、『なぜ服従したのか』ではなく、『なぜ支持したのか』という問い」なのだと。その問いを突き詰めていくならば、結局は、「戦争に加担することで殺人に手を染める」ことを拒むことができるか否かということである。これを拒むことができる人間は、「殺人者である自分とともに生きていることができない」と考える人間であり、自分の心に偽りのない「自己とともに生きたいという望み」を持ち続ける人間であるとアレントは主張する。今、同じことを我々は問われている。政治家、市民、組織、とりわけメディアが次々と安倍という政治支配体制に「服従」せざるをえない状況にある現在、我々が問うべき言葉は、「なぜ服従する」のかではなく、「なぜ支持するのか」なのであり、「殺人者である自分とともに生きていることができない」という主張をはっきりと表明することである。

急いで書いたので、十分に納得のいくような応答ができたとは思わないが、時間がないので、そろそろ結論にする。原爆死者慰碑の碑文、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」は明らかにマヤカシである。なぜなら、この碑文は、原爆無差別大量殺戮という重大な「人道に対する罪」を犯した米国の大統領トルーマンをはじめ、それに加担した多くの米国の政治家、軍人、科学者の「罪」と「個人的責任」を追求することもなく、そのような重大犯罪を犯した米国の国家責任も追求しない。さらには、アジア太平洋戦争という侵略戦争を開始し、結局は原爆無差別大量殺戮を招いた、その日本の天皇裕仁や軍指導者、政治家たちの「個人的責任」と、日本の「国家責任」もウヤムヤにしてしまっている。その「責任ウヤムヤ」は、もちろん、「唯一の原爆被害国」と言いながら、米国の核抑止力を強力に支持するだけではなく、自国の核兵器製造能力を原発再稼働で維持し続けている日本政府の「無責任」と表裏一体になっている。そんな状況を隠しておいて、「過ちとは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した争や核兵器使用などを指しています」という広島市の解説は、犯罪の「個人的責任」も「集団責任」もウヤムヤにしているのであり、これがマヤカシでなければ、なんと称するのか?!

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