2016年8月23日火曜日

戦争と美術


絵画と版画から考える戦争と人間

今年の「86ヒロシマ平和への集い」は佐高信氏を基調講演者として迎え、壊憲を目指す安倍政権をなんとしても打倒すべきであるという、私たちたち250名余りの参加者の決意をあらためて確認する集会となりました。猛暑の中、集会準備にご助力いただいたみなさん、とりわけ事務局スタッフのみなさん、そして例年のごとく全国各地から参加していただいたみなさんに心からお礼を申し上げます。

私個人のことになりますが、87日には広島市内で開かれた「平和研問題 全国研究集会」に出席し、「佞儒と平和研究:戦争加担の歴史的観点から見る現在の広島平和研究所」という題で話をさせていただきました。「独立法人化」推進で大学の「独立性」が失われ、それに伴って三流学者たちが佞儒となって権力者に追従していく傾向がますます強くなっていく事態は全国的なものであって、広島市立大学だけに特異な現象でないことを私自身の体験に基づいて解説しました。ジャーナリストの藍原寛子さんも報告され、続いて70名ほどの参加者のかたたちから熱心な発言がありました。この問題に心を痛めておられる市民が、広島だけではなく県外にも多くおられることを知り、たいへん勇気づけられる集会でした。集会を計画・実施された堀伸夫さんに心から敬意を表します。堀さんのご努力なくしてこの集会の実現は不可能でした。今後も、広島平和研究所と広島市立大学の動きを厳しく見つめていく市民運動が全国的規模で持続していくことを祈ります。

翌日の8日には長崎に移動。長崎到着後すぐに、「岡まさはる記念長崎平和資料館」を見学。9日早朝には平和公園(祈りのゾーン)で例年行われている「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼集会」に参加した後、「長崎原爆資料館」を見学。(たいへん興味深いことには、「岡まさはる記念長崎平和資料館」と「長崎原爆資料館」の両方で、日本を訪問中の中国の南京民間抗日戦争博物館の館長・氏にお会いしました。呉氏の広島・長崎訪問で、これまで広島・長崎原爆無差別殺戮を正当化視してきた中国側の考えと態度に微妙な変化が起きていることを察知した次第です。同時に、広島、長崎の原爆資料館の歴代の館長で南京の博物館を見学した人が果たしているのだろうかと疑問に思い、近いうちに調べてみたいと思った次第です。どなたかすでにこの件でご存知の方がおられましたら、ご教示いただければありがいです。)そのあと、これまた例年、平和公園内で開かれている長崎平和市民団体の平和集会(代表:舟越耿一先生)にはじめの30分ばかり参加。翌日夕方には神戸で「市民の意見30・関西」主催の講演会で「オバマ大統領と安倍首相の広島訪問徹底批判小田実の『難死の思想』に学ぶ —」という題で持論を述べさせていただきました。

実は、今回の一時帰国では、海外永住者も外国人観光客同様に使える1週間乗り放題の「JRパス」を利用して、広島→長崎→神戸→(東京経由で)長野県・上田市と長野市(川中島)→東京(私鉄東武東上線に乗換えて埼玉県東松山へ)と長距離を走り回りました。上田市の訪問目的は「無言館」見学、川中島では「ひとミュージアム上野誠版画館」を訪問、東松山では「丸木美術館」で開催中の「四國五郎展」を見学しました。おかげで、数日間、様々な絵画と版画に出会うことができ、とても有意義な数日となりした。しかも、広島を離れる1日前の7日の朝には、比治山の広島市現代美術館で開催中の「1945年±5年 戦争と復興:激動の時代に美術家は何を描いたのか」も鑑賞する時間が持てました。この一連の芸術鑑賞でさまざまなことを考えさせられましたが、詳しく述べている時間がないので、ごく簡単にだけその感想の一端を記しておきます。

広島現代美術館「1945年±5年」展
まず、「1945年±5年」展ですが、日本各地の美術館に分散している関連作品、全部で210作品を集めためずらしい特別展でした。そのうちの大部分が19411945年の太平洋戦争期に描かれた油絵です。太平洋戦争期の作品は、「植民地、『満州国』、占領地」、「軍隊と戦争」、「南方」、「大きな物語とミクロコスモス」、「戦地から内地へ」、「銃後と総戦力」というテーマに分類されています。しかし、これらの作品の中で、前線での戦闘状況を描いたものは藤田嗣治の作品「シンガポール最後の日(ブキ・テマ高知)」のほか、ごく数点にしかすぎません。その藤田の作品も、最もよく知られている彼の戦中期の作品「アッツ島玉砕」(1943年 東京国立近代美術館所蔵)と比べれば、実際の戦闘の壮絶さを伝える絵画としてはあまりにも物足りない内容のものです。現実の戦闘の残虐性を伝える作品には、「アッツ島玉砕」のほかに、同じく藤田の作品「〇〇部隊の死闘 ニューギニア戦線」(1943年)や、橋本八百二の「ニューギニア作戦」(1944年)バターン死の行進をテーマにした向井潤吉の「四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)」(1942年)、中村研一の「コタ・バル」(1942年)などがありますが、これらの作品はなぜか一点も展示されていません。もしも、広島市現代美術館が意図的にこうした戦闘の壮絶さ、おぞましさ、恐怖を描いた作品を展示作品に加えなかったとしたなら、それは重大な問題です。

藤田嗣治作「アッツ島玉砕」

それにしても、戦中期の作品にもかかわらず、展示作品の多くが植民地や占領地の風景を描いた極めて牧歌的とも言えるような長閑なものばかりで、戦闘意欲を鼓舞したりナショナリズムを高揚させるような作品が非常に少ないことに驚かされます。それとの関連では、戦時期に陸軍美術協会が発行していた『大東亜戦争 南方画信』という雑誌がありますが、19429月発行の第一輯には「陸軍派遣画家 南方戦線座談会」という興味深い(同年721日に行われた)座談会の内容が掲載されています。この座談会に出席したのは、藤田嗣治をはじめ、山口蓬春、寺内萬次郎、鶴田吾郎、田村孝之介など当時の有名な画家たち8名です。この座談会の中で、香港・マレー方面に派遣された画家の一人、宮本三郎が、戦地に行った画家の体験談として、「耳から受けた印象が非常に強くて、色とか形による視覚による印象が、案外弱いんです」と正直に述べています。つまり、実際の戦闘状況については将兵たちから後日談として話を聞くだけで、画家自身が前線に出て生死に関わるような危険な状況をじかに体験・観察して描くということはほとんどなかったものと思われるのです。したがって、彼らが描いた絵の多くが、戦闘地域=前線から離れた「占領地」の風景や日本軍駐留兵、あるいは現地住民の日常生活といった「牧歌的」なものになったのも決して不思議ではないと考えられます。これでは戦争の実態、日本軍占領地で軍の支配下におかれた住民生活の実態が日本国民に伝わるはずはありませんでした。もちろん、そのような作品を描いたとしても、陸軍当局が展示を許可する可能性もほとんどなかったでしょうが。

しかし、この座談会で藤田はひじょうに興味深い発言をしています。「実際にはあったが描けない、というのも可なりあるからね。有り得ることなら実際に無くても差支えないと思ふ。僕が聞いた話でも凄惨なのがあってね、僕は描きたくて堪らない場面なんだが描けないんだよ」と彼はこのとき語っています。描けない理由が彼個人の画家としての「想像力」の問題なのか、それとも軍の反感を買うことを避けたいという「政治的配慮」なのかは、この発言だけからではわかりません。ところが、翌年1943年になると、彼は、上記のような「アッツ島玉砕」や「〇〇部隊の死闘 ニューギニア戦線」といった作品のように、戦闘に駆り出された兵士たちの絶望的な悲惨さと恐怖を、見る者の胸に強烈に迫ってくる凄まじい形で描き出しました。驚くべきことは、明らかに「反戦」と読み取れる藤田のこれらの絵画展示を、陸軍当局が禁止したという記録はありません。それどころか公開されたこの作品を見たある老婆が、感動のあまり手を合わせて拝み「お賽銭」を置いていったという逸話が残っているくらいです。藤田は、さらに「サイパン島同胞臣節を全うす」という題で、サイパン島のいわゆるバンザイ・クリフから飛び降り自殺する寸前の人たちをテーマにした玉砕図まで描いています。陸軍当局がこうした藤田の作品をどう捉えていたのかは、ひじょうに興味深い問題です。この点については、すでに多くの論者が解説しているように、やはり、当時、日本人芸術家として世界にその名が知られていた藤田、しかも陸軍美術協会理事長という重職について一応陸軍に忠節を示していた藤田の作品を、陸軍当局があからさまにその展示を禁止するということができなかったという状況があったことは否めません。さらには、「玉砕」はいかにその内容が壮絶であっても、「玉砕=天皇裕仁と国家への忠誠」という形式的表象性を否定することが陸軍当局にとっては難しかったということも、藤田の作品展示禁止を困難にしていた理由の一つではなかったかと私は考えます。

藤田嗣治作「サイパン島同胞臣節を全うす」 

再び「座談会」の話に戻りますが、宮本三郎はこの座談会の中で次のようにも述べています。「『時局柄戦争画を描かなければならないのは辛いでせうね。』という風なことを云う人がある。…… 僕は 決して迎合するとか、止むを得ずやっているとかいふのではなく、面白いから描く。それがお役に立つといふことは大変有難いことだと思っています。」つまり、画家たちは「描きたいから描く」という芸術家としての個人的欲求を満たしたいがために行動するのであって、「美の追求」は、その行動が権力者に喜ばれるからやっているのではないのだ、という主張です。「描きたいから描く」といのは本心だと思いますが、しかし、そのためには、藤田ほどの知名度と権威を有していなかった彼らが、権力に迎合し、陸軍に嫌われないような内容の作品を描いていたことは否定しようもない事実です。

無言館
これとは対照的に、若年でいまだ無名の芸術家のタマゴであったため、「描きたいから描く」という欲求を追及できず、戦地に駆り出され無念のうちに亡くなっていった多くの青年たちの作品が「無言館」に展示されています。彼らの多くが美術学校の卒業生、あるいはいまだ美術学校に籍をおいていた若者たちでした。彼らの作品と同時に、彼らが親族や恋人、妻に送った手紙や絵葉書も展示されています。小さな葉書に絵を描き、文章を添えて故郷に送ったものが幾つも展示されていますが、これらを見ると、青年たちがいかに絵を描くことに飢えていたか、その心情が痛切に伝わってきます。生きては帰れないだろうと考えた青年たちが、戦地に送られる直前のごく限られた貴重な自由時間を、故郷の風景のスケッチや恋人の裸体スケッチに費やしたその創作結果を目にすると、涙が出てきます。ほとんどが具象画ですが、1点だけ、ダリの影響を受けたと思われるシュールレアリズムの作品がありました。この作品を含め、戦後も生き残っていれば、様々な形で才能を伸ばしていっただろうにと思われる作品が多々あります。「無念」という簡単な言葉ではとても表現しきれない彼らの深い哀しみと、「決して迎合するとか、止むを得ずやっているとかいふのではなく、面白いから描く」のだと主張した「陸軍お雇い画家」の言葉、この二つの間にあるあまりにも酷い溝を私たちはどう考えるべきなのでしょうか。

無言館


ひとミュージアム上野誠版画館
「無言館」訪問の翌日、川中島(現在は長野市中島町今井)に2001年に創設された「ひとミュージアム上野誠版画館」を訪問しました。実は、イラク戦争が始まった直後の200347日、私は、信濃毎日新聞の依頼でイラク戦争批判のエッセー「ハイテク兵器が市民殺戮」を寄稿しました。その時事評論を「ひとミュージアム上野誠版画館」の館長である田島隆さんが目にされ、「版画館」の憲法9条擁護・反戦ポスター2枚を私に送ってこられました。このポスターを見て驚いたのは、ケーテ・コルビッツの版画を使って作成されていたことです。恥ずかしながら「上野誠」という人物名を私はそれまで聞いたことがありませんでした。この版画館のホーム・ページを見て、初めて「上野誠」のことを知り、いつかこの版画館を訪問させていただきたいと考えていましたが、ようやく今年なってその願いを果たすことができました。

上野誠は、1909年に内村誠として川中島に生まれ、1931年に東京美術学校(現在の東京芸大)に進学しますが、翌年の32年に学内民主化運動に参加して退学処分となりました。36年に上野チイと結婚して姓を上野に変えましたが、それは退学処分という過去があるため本名では就職が困難であったことが理由だったとのこと。37年に、日本訪問中の中国の版画家・劉峴(りゅうけん)と会い、彼から魯迅が編集した『ケーテ・コルビッツ版画集』を購入しています。上野がコルビッツの仕事をこれ以前から知っていたのか、それともこの版画集を見て初めて知ったのか、私にはわかりませんが、いずれにせよ、上野がコルビッツから多大な影響を受けたことは間違いありません。41年に鹿児島県指宿中学校の教諭となり、以後は終戦まで岐阜県や長野県を教師として移転していますが、その間も版画の制作を続けていました。

戦後の45年に新潟県六日町に転居し、玩具製作会社に玩具デザイナーとして勤め始めます。49年には日本版画運動協会創立に加わり、52年に上京して本格的な版画制作活動に入ります。55年に「ケロイド症者の原水爆防止の訴え」制作、59年には「ヒロシマ三部作」がライプチッヒ国際版画展で金賞受賞。61年からは長崎の被爆者との交流を深め、67年には当時の東ベルリンで開催されたケーテ・コルヴィッツ生誕百年記念版画展に「傷痕」と「生き残る」を出品して、優秀賞を受賞。68年からは「原子野シリーズ」の制作を開始して、『原爆の長崎』を刊行。69年にはモスクワで、76年にはブルガリアで個展を開催するなど、国際的な活躍をみせましたが、80年に70歳で亡くなっています。

同じ川中島で生まれ、信州大学教育学部を卒業されて地元で長年中学校教師をされた田島さんが、上野誠のご家族から多くの作品を譲り受けられ、ご自分の退職金などを使われてほとんど自費で創設されたのが、この「ひとミュージアム上野誠版画館」です。小さいながら、とてもよく考案されたミュージアムで、定期的に音楽会や講演会なども催されているようですし、地元の反戦平和活動家たちのタマリバとしても利用されているようです。田島さんはコルビッツの版画もこれまでに十数点を入手され、上野誠の作品と一緒に展示されています。私が、上野の作品中でもっとも強く感銘を受けるものは「ヒロシマ三部作 男」と「ケロイド症者の原水爆防止の訴え」です。被爆者が受けた深い「傷痕」を抉り出すように表現すると同時に、にもかかわらずその「傷痕」を乗り越えて生きていこうとする力強い「生キザマ」が描かれていると思います。

ヒロシマ三部作 男
 
館長の田島さんによると、上野は1937年に、日本の軍国主義勢力の中国東北部(満州)における残虐行為を版画にしているそうです。田島さんは、「原爆被害をはじめ日本人の戦争被害を描いた作品は数多くあるが、加害行為を描いた作品は皆無である。その中で上野誠はただ一人、中国における日本軍人の非道な姿をリアルに描いた。残念ながら上野が描いた版画の現物は日本にないため実物を見ることができず、加害の事実を描いた画家が存在したことすら知られていない」と述べています。以下は田島さんの論考「幻の版画を探して」からの抜粋です。

「幻の版画
1937年、上野誠の家に中国の版画家劉峴(りゅうけん)が平塚運一から紹介されて訪ねてきた。彼は手土産に版画集を持参したが、その序文を魯迅が書いていた。上野は驚き彼に心を開き、自分が隠し持っていた版画を披露した。

『その頃、いわゆる満州国に駐屯する日本軍は匪賊討伐に名を借り、中国人や在満朝鮮人の抵抗運動に惨虐(ママ)な弾圧を加えていた。ある時、郷里で一人の帰還兵から弾圧の記録写真を見せられ息を呑んでしまった。たとえば捕らえた人々を縛り上げて並ばせ、その前で一人ずつ首を切る。今や下士官らしきが大上段に振りかざした日本刀の下に、首さしのべ蹲る一人、とらわれびとらの戦慄にゆがんだ顔、諦めきった静かな顔、反対側の日本人将兵はいかにも統制された表情で哂っている者さえいる。~屠殺場さながらなのもあった。切り落とした生首が並べられ、女の首まであった。戦利品の青龍刀・槍・銃などが置かれて将校兵士らが立ち、戦勝気取りだが国際法を無視したこのおごり、逸脱退廃、自ら暴露して恥じない力の過信、憤激したわたしは、背景に烏を飛び交わせ暗雲を配し、叉銃の剣先に中国人の首を刺し、傍らには面相卑しく肩いからせた将校を立たせた版画を作り、ひそかに持っていた』(1981 上野誠全版画集)

劉峴は感激し、二人はそれ以来心を許しあう友人となった。
1937年盧溝橋事件が起こり日中戦争が始まる情勢となったので、劉峴は急遽帰国することになり、その挨拶に上野を訪問した。上野はそのとき何枚かの版画を劉峴に託し、中国に持っていってもらった。
そのことを劉峴は次のように書いている。

『彼が贈ってくれた二十余枚の木刻作品は、すべて日本労働人民の生活を反映したもので、その中の幾枚かは、わが国の東北人民が日本軍国主義の殺戮下にある情景を描いたもので、深く人を感動させた。これらの創作は、作者の崇高な人道主義の思想を伝えており、わたしは改めて上野誠先生に敬服した。
  わたしは、これらの木刻作品を上海に持ち帰って中国人民に紹介したら、かならず意義があると考えた。わたしは、当時『文学』月刊の主編だった王統照先生と相談しこれを発表することに決め、わたしの文章を添えて紹介することになった。ところが、中日戦争の拡大によって刊行物の印刷が縮少されやむなく中止となった。上野の木刻作品をわが国に紹介できなかったのは誠に残念なことであった』(1981 全版画集)

劉峴はこの版画を出版しようと試み、掲載誌まで決めたのだが戦争の激化により不可能になった。以来上野の版画の行方はわからない。」

よって、残念ながら、上野誠の日本軍残虐行為をテーマとした版画作品はいまだに「幻の版画」のままですが、ぜひその存在が明らかになり、私たちの目に触れる機会が近い将来訪れることを祈っている次第です。
 
丸木美術館「四國五郎」展
813日早朝、長野駅から新幹線で東京に移動し、午前11時前には埼玉県東松山の丸木美術館に到着。ここには私はこれまで数回訪れていますが、夏休みのせいか、これまでの訪問客が少ない閑散とした雰囲気とは違って、駐車場もいっぱいで、館内にも多くの人がいました。とくに親と同伴の中高校生が目立ちましたが、中には明らかに中国語を話している(台湾からなのか、それとも中国大陸からなのかは分かりませんが)中国人の大学生のように見える若者もいました。ここでも私は、「日本人の学生で、夏休みに日本の戦争責任問題を考えるために、中国の南京大虐殺記念館や韓国ソウルの西大門刑務所歴史館などを訪問する学生は果たしてどのくらいいるのであろうか」と考えずにはおられませんでした。

「四國五郎」展は、文字通り圧巻です。シベリア抑留時代の飢餓状況における厳しい強制労働生活の描写から始まり、戦後米軍占領下における情報統制との闘いの中での困難な作品制作。文芸運動、労働運動、反戦反核市民運動の重要な要素 — メッセージの内容が市民に一目で分かるように強烈な象徴的感受性を内包している絵画 — の創作者。子どもたちだけではなく大人にも、心の奥深くまで戦争被害者の痛みと哀しみを浸透させる絵本の作家。どの作品の前でも、たちどまって凝視し熟考せざるをえません。この特別展を見て私が最初に感じたことは、「四國五郎という人は、ひじょうに幸運な芸術家であった」ということです。なぜなら、その2日前に見たばかりの「無言館」に展示されている作品の制作者たちの「悲運」と対比することを考えざるをえなかったからです。

「描きたくても描くことができなかった」シベリア抑留時代、困難な強制労働生活の中で、人間の醜さも美しさもイヤというほど教えられたはずのシベリア抑留時代。この苦難の時代があったからこそ、それが四國五郎の戦後の絵を描く強烈な制作意欲の「エネルギーの源泉」と、絵のモチーフを選びだす「研ぎ澄まされた視点」を産み出したのではないか、というのが私の考えです。苦難の中で戦争を生き延びた体験が、傑出した芸術家としての四國五郎を創り上げたという意味で、私は「四國五郎という人は、ひじょうに幸運な芸術家であった」と思うのです。

数多くの作品の中で私が最も心動かされる作品の一つは、「相生橋」と題された絵です。遠くに霞んで見える原爆ドームと市電が渡っていく相生橋。その手前に太田川に沿って連なる原爆スラムの貧しい家並。息子や娘を亡くした孤老の被爆者、夫を亡くし幼子を抱え原爆病に苦しみながら日雇労働の生活を余儀なくされた母親、原爆病差別と民族差別という二重差別に苦しんだ朝鮮人たち。そうした人たちが集まっていたこの原爆スラムこそ、原爆被害の象徴であったと私は考えています。そのような様々な苦しみを持った人たちがひっそりと暮らしていた原爆スラムの悲哀が、ひしひしとこの絵から伝わってきます。

 

四國五郎作「相生橋」  
  
  この四國五郎もまた、ケーテ・コルビッツから強く影響を受けた作家であったことはよく知られているところです。上野誠、四國五郎、それに丸木位里・俊夫妻、みなケーテ・コルビッツの作品から影響を受けた人たちでした。コルビッツの「人の心を打つ」創作力の大きな影響力について、あらためて再認識させられる「美術館訪問の旅」でした。

ケーテ・コルビッツ
 

そのコルビッツが亡くなる1年少し前の19442月に義理の娘に宛てた手紙の中の一文を引用しておきます。
「平和主義とは、単にものごとを静かに眺めることではありません。それは、勝ち取らなければならないのです、一生懸命に勝ち取らなければ」。

最後に余談ですが、この旅行中に列車の中で読んだ葉室麟の時代小説、『山桜』、『柚子の花咲く』、『陽炎の門』の三冊はとてもよかったです。とりわけ、『陽炎の門』は、一旦読み始めたら止められないくらい面白いです。内容的には『柚子の花咲く』のほうが感動的ですが。以前にも述べたことがありますが、山本周五郎、藤沢周平、これを継ぐ傑出した時代小説家は葉室麟だと私は思います。