2016年9月10日土曜日

オバマ広島訪問再考


I.「8・6」から「8・15」へ液状化する広島
II. 罪と責任:ハンナ・アレントの目で見るオバマ大統領の謝罪なき広島訪問

オバマ広島訪問の意味をもう一度再考し、広島の反戦平和活動のあり方について活発な議論が起きることを望んで、二つの論考を公開します。一つは、私が尊敬する広島の市民活動家・池田正彦さんによる、「詩人会議」11月号掲載予定の、今年の8月の広島の状況の報告。もう一つは、ハンナ・アレントのナチス・ホロコースト問題をめぐっての「罪と責任」の議論を、オバマ・安倍の二人による広島訪問の批判に応用した拙論です。読者のみなさんの忌憚のないご意見を聞かせていただければ幸いです。

I.「8・6」から「8・15」へ
液状化する広島
広島文学資料保全の会事務局長 池田正彦

 毎年恒例化した広島の八月六日は終わった。今年は、五月二七日のオバマ大統領広島訪問直後の「8・6」であり、内外から注目された。
 今まで、広島市長の「平和宣言」は、「核兵器の製造と使用を全面的に禁止する国際協定の成立に努力を傾注し、もって人類を滅亡の危機から救わなければならない」(一九五八年、平和宣言・渡辺忠雄市長)の流れを踏襲し、政治的立場はどうであれ、反核の立場を明確に示しつづけてきた。
 その背景に、一九五五年第一回原水爆禁止世界大会が開催されるなど、世界中で高まりつつあった反核運動・世論が後押しした。
 では現在、広島はどのような状況になっているのだろう。
 八時一五分黙祷後、松井広島市長の平和宣言は、予想通り「アメリカの核の傘」にまったく言及しない空疎な内容に終始した。
 それはそうであろう。オバマ訪問時「広島に来てもらうだけでも……」と無邪気な歓迎気分を演出した張本人の一人でもあるから。それに広島の一部の平和団体も相乗りし、この雰囲気に同調しない意見はかき消された感がある。原爆報道の雄といわれた某新聞社も「悲願が達成された」と書き(少しでも広島を理解してほしいとの願望はわかるが……いつ悲願となったのであろうか)オバマ歓迎ムードを煽った。
 とまれ、革新市長といわれた秋葉市長時代、あの「プラハ演説」を都合良く解釈し、オバマジョリティなどの造語までつくり(Tシャツやオバマジョリティ音頭までつくった)浮かれ騒いだ前歴をついつい思い出してしまった。(某テレビ局から、「オバマジョリティ音頭は何処で演るのでしょうか」と筆者に問い合わせがあった私は思わず苦笑した)
 これだけではない。原爆ドーム東側のビルは、地上一四階にリニュアール(おりづるタワーと命名)。一四階から原爆ドームを見下ろすという趣向で、入館するのに1700円かかるという。そこから鶴を折り、下に投げ入れるのに500円。一階は広島の観光土産が並び、オープンカフェで飲食が提供される。
 ドームのすぐ近くの元安橋のたもとでは、一部市民の反対にもかかわらず「かき船」(移動可能な船との触れ込みだが、とても移動できる工作物ではない)が営業し、ドーム東側一帯を「おりづる通り」の愛称が付けられたと新聞は伝える。
 少し考えてほしい。同じ世界遺産・アウシュビッツ博物館の前にこのようなモノが出現したなら、世界の人々から嘲笑されるであろう。
 こんな実態と「広島の世界化」はどのように帳合いをとるのであろう。(市民の中から議論が起きないのも寂しい)
 いま広島は「平和」を売りにする観光の街に形骸化している。オバマ歓迎もその一環としてとらえれば、他愛のない商業主義と片付ければいいのだが、「核兵器なき世界」もオバマが折ったといわれる折鶴に収斂させ、「積極的平和主義」を標榜する安倍政権にとって大骨・小骨も抜く広島での実験は成功しつつある。友人は、この現象に皮肉を込めて「広島の液状化」と称した。
 このような中で、私たち広島文学資料保全の会は、二〇〇二年から「もう一度8月15日に思いを寄せよう」と、「反戦・原爆詩の朗読会」を行ってきた。今年は8月14日「原爆文学資料を世界記憶遺産に」と題して朗読会を行った。広島女学院大学グループは栗原貞子、広島花幻忌の会は原民喜、朗読ボランティア中心グループは峠三吉、記憶遺産申請予定三人の作家の作品を朗読した。
 特に、日本の戦争とアジアをとらえた「ヒロシマというとき」(栗原貞子・作)の朗読は注目された。
 席数一三〇の会場に一五〇人を超える市民が集まった。それが多いか少ないか。ちなみに、「平和」を冠した催しは、私の知るところこの一件だけであった。
 改めて栗原貞子の言葉を思い出す。「アメリカの原爆使用は絶対容認できない。でも原爆の悲惨を訴えるだけではアジア・太平洋の人々の共感を得ることはできない。日本が過去の過ちを反省し、再び戦争をしないという決意を示したとき、広島の訴えが届く」
 8月15日あの戦争に向き合う広島であってほしい。そう思うのは私たちだけではないはずである。
 広島の夏が、8月6日で完結する見慣れた風景の中で、広島の「平和度」が今問われている。

II. 罪と責任:ハンナ・アレントの目で見るオバマ大統領の謝罪なき広島訪問
田中利幸

「罪」と「責任」の忘却
 「わたしたちの社会には、裁くことに対する恐れが広まっている ……. 悲しいことに、生きているか死んでいるかを問わず、権力と高い地位をえている人々の罪を問うことにたいする恐怖はとくに強い」。これはハンナ・アレントが、彼女の著書『イェルサレムのアイヒマン』(1963年)に向けられた猛烈な批判への応答として、1964年に著した論考「独裁体制のもとでの個人の責任」の中で述べた言葉である。
 それから半世紀以上を経た20165月、被爆者を含む大半の広島市民と日本国民は、「権力と高い地位をえている人々の罪を問うこと」はすっかり忘れているため、「恐怖」を感じるどころか、人類史上最も重大な犯罪の一つである原爆無差別大量殺戮に対して71年過ぎてもその加害責任を認めようとしない米国大統領を、被害国のペテン師的な首相の肝入りで大歓迎するという愚行をおかした。さらに悲壮的なのは、その愚行を、地元の中国新聞をはじめ、これまた日本の大半のメディアがこぞって褒めたたえたことである。これを「愚行」と呼ばなければ、なんと表現すべきなのか、私には他に言葉が見つからない。
 オバマ広島訪問は、我々が決して忘れてはならない重大な戦争犯罪の「罪」と「責任」の問題をすっかり忘却させるという、決定的な思考的打撃=精神的麻痺を広島市民と日本国民に与えたという意味で、「被爆地・広島」の今後の「反核運動」にとって深刻な禍根となる歴史的な出来事であった。この打撃の深刻さが歴史的に見ていかに重要であるかに大半の広島市民と日本国民が気がついていないこと自体、実は日本の民主主義にとってはさらに深刻な事態なのであるが。私は、このオバマ訪問と、同じく広島市民が熱狂的に歓迎した194712月の天皇裕仁の広島訪問の二つは、広島の反戦反核運動を決定的に骨抜きにし、日本の民主主義そのものにも致命傷的悪影響を与えたと考えている。

「罪」とは「個人の犯罪行為」の問題
 この場合の「罪」とは何か。言うまでもなく、それは一瞬にして数十万の、米国に「危険をもたらす可能性もない人々を、何らかの必要性のためではなく、反対にすべての軍事的な配慮やその他の功利的な配慮に反してまでも、殺害」した犯罪行為のことである。ちなみに、上記括弧内の引用文はアレントが上述の論考でユダヤ人虐殺という犯罪について解説した言葉であるが、それはそのまま原爆無差別大量殺戮にも当てはまる。アメリカ政府が広島・長崎への原爆攻撃を決行した理由は、もっぱら、ソ連に対して核兵器の破壊力を誇示するという政治的理由のためであって、戦略的には全く必要がなかったことは、今や研究者の間では明確に証拠づけられた歴史的事実である。しかも、いかなる理由があったにせよ、この無差別大量殺戮行為は、明らかにハーグ条約に違反する戦争犯罪行為であり、且つ「人道に対する罪」でもあることはあらためて説明するまでもないことである。
 ではそのような重大な犯罪を犯した「犯罪人」は誰なのか。これまたあらためて述べるまでもなく、トルーマン大統領をはじめスティムソン陸軍長官やバーンズ国務長官などの当時の軍指導者や米国政府閣僚たちと、グローブズ少将や科学者オッペンハイマーなどマンハッタン計画の重鎮など、多数の人間である。広島・長崎原爆無差別大量殺戮は、これらの複数の人間が共同で犯した重大犯罪である。共同で犯した犯罪ではあるが、その「罪」はそれら複数の人間一人ひとりが犯した個人的行為のことである。なぜなら、アレントが、これまたナチスのユダヤ人虐殺との関連で主張しているように、裁かれなくてはならない「罪」とは、その一人ひとりの「人間の行為」なのであって、「すべての人に共通する人間性の健全さを維持するために不可欠とみなされている法に違反した行為が裁かれる」のである。
 つまり、「罪は責任とは違って、つねに単独の個人を対象」とするものであり、「どこまでも個人の問題」、「罪とは意図や潜在的な可能性ではなく、行為にかかわるもの」なのである。アレントは、(アイヒマン裁判で)「判事たちが大きな努力を払って明らかにしたことは、法廷で裁かれるのはシステムではなく、大文字の歴史でもなく歴史的な傾向でもなく、何とか主義(たとえば反ユダヤ主義)でもなく、一人の人間なのだということであった。もしも被告が役人であったとしても、役人としてではなく、一人の人間として裁かれるのである。役人としての地位においてではなく、人間としての能力において裁かれる」と述べた。同じように、原爆無差別大量殺戮の「罪」とは、大統領、陸軍長官、国務長官等々などの「地位」とは関係なく、その人間がそれぞれとった行動=殺戮犯罪行為のことであり、それ以外のなにものでもない。彼らは「大量無差別殺人者」という「犯罪人」であったというこの明白な事実を、我々は決して忘れてはならない。しかも、ユダヤ人虐殺も原爆無差別大量殺戮も、「無法者、怪物、狂乱したサディストが実行したのではなく、尊敬すべき社会で、もっとも尊敬されていた人々が手を下した」のであった。「責任」問題は、この「罪」の明確な確認なくして議論できないことは明らかである。言うまでもなく、「罪」を忘却することは、したがって必然的に「責任」の忘却に直結する。また逆に、「責任」の忘却は「罪」の隠蔽に直結している。

国家理性による犯罪正当化
 問題は、こうした重大犯罪行為が、戦時、国家という名の下に行われた場合、とりわけ戦勝国によって行われた場合には、全く法的制約を受けないということである。つまり、アレントも説明しているように、国家の行為という弁明の背後にある理論=国家理性(レゾンデタ)論は、主権国家の存続または維持が左右されるというような異例な状況にあっては、犯罪的な手段を利用せざるをえない、あるいは利用することが許されるという主張である。国家の存続が危険にさらされる場合には、その危険を排除するために使われる手段はいかなるものにも制約されないと主張する一方で、法的な制約や道徳的な配慮は国家の成員である市民には厳しく要求されるわけである。しかし、アレントが適確に指摘しているように、ユダヤ人虐殺という犯罪は「なんらかの必然性のために犯されたものではない」し、「ナチス政府はこうした周知の犯罪を犯さなくても存続できた」のである。同様に原爆無差別大量殺戮もまた、必然性があって犯されたものではないし、米国政府はそのような重大な犯罪を犯さなくても存続できたし、戦争にも勝利できたことは誰の目にも明らかである。
 したがって、原爆が使われていなければさらに百万人という死亡者を出したであろうし、戦争は終結していなかったであろうという米国の原爆攻撃正当化論は、犯罪隠蔽のために常に利用される国家理性論から観ても成り立たない、文字通りの「神話」である。原爆使用の是非をめぐる議論は、いつも、それが必要であったかなかったかといった「歴史的状況判断論」にばかり集中する傾向があるが、そのことによって原爆無差別大量殺戮に関する議論の本質である「犯罪性」の問題が実はぼやかされてしまうということも我々は強く注意しておくべきである。つまり、「状況判断論」で、「犯罪性」の問題がごまかされないようにしなくてはならない。

政治責任である集団責任
 かくして「罪と無実の概念は、個人に適用されなければ意味をなさない」のに対し、責任には、「行為」の結果として必然的に発生する「個人的責任」と、「国家責任」のような集団責任がある。集団責任とは、個人行為に関する法的な表現とは明確に区別されなければならない政治的な表現のことである。戦争犯罪のように国家の名において私の父や先祖が犯した犯罪、すなわち自分が実行していない行為について責任を問われること、その責任を私が負うべき理由は、私がその国家集団に所属しているからであり、「共同体の名において実行されたことにたいして、共同体が責任を問われること…… 善きにせよ悪しきにせよ、この責任は共同体を代表する政府だけではなく、すべての政治的な共同体にかかわるから」である。すなわち、「すべての政府は、それ以前の政権の行為と過失の責任をひきうけるのであり、すべての国は過去の行為と過失をひきうける」義務がある、とアレントは主張する。
 なぜなら、「わたしたちが実行していない事柄に<身代わりの>責任をひきうけ、わたしたちがまったく無辜である事柄の帰結をひきうけるということは、わたしたちが自分たちだけで生きているのではなく、同じ時代の人々とともに生きているという事実に対して支払わなければならない代価である。なによりも政治的な能力である行動の能力は、多数で多様な形態のもとにある人間のコミュニティのうちでしか実現できない」(強調:田中)からである、とアレントは説明する。
 つまり、異なった共同体の成員である我々が、「ともに生きていく」ためには、自己の所属する共同体成員がその共同体の名前で他の共同体の成員に対して犯した過失や犯罪行為について、共同体としての集団責任をとるという正義を果たさなければ、共生共存は不可能なのである。自己の所属する共同体の(現在と過去の両方の)行為を厳しく自己検証することは、したがって、共同体間関係=国際関係の平和構築には不可欠な行為なのである。

「罪」も「責任」も認めないオバマと安部の共犯性
 2016527日、オバマは、「謝罪」を求めない少人数の被爆者(しかも韓国人被爆者は一人も含まない)だけを集めた広島平和公園で「所感発表」を行った。その冒頭の発言は次のようなものであった。「71年前、晴天の朝、空から死が降ってきて世界がわった。閃光と炎の壁がこの街を破し、人類が自分自身を破する手段を手に入れたことを示した。」
 原爆攻撃を、「空から死が降ってきて …… 閃光と炎の壁がこの街を破した」とあたかも天災のごとく描写した。まずこの冒頭の表現で、原爆無差別大量殺戮問題にとって最も重要な問題、つまり「罪」の問題を取り上げることを彼は拒否した。いったい誰が、どんな理由で、どれほど残虐な殺戮破壊行為を犯したのかを確認し、言明することを被害者の前で拒否したのである。そして次の文言、「人類が自分自身を破する手段を手に入れた」という表現で、今度はその「罪」を「人類」全体に負わせてしまい、そのことによって自国の責任、とりわけ責任を最も強く継承しているはずの米国政府の首長である大統領としての自己の責任を認めることを拒否した。つまり、最初の一言で、原爆無差別大量虐殺という犯罪にとって決定的に重要な二つの問題、すなわち「罪」と「責任」について、認識することを完全に拒否したのである。したがって、「所感」のその後の内容が、いかに空虚で無意味なものとなるかは、もはや聞くまでもなく想像できたことであった。ちなみに、オバマは広島を訪問する直前に訪れたベトナムでも、米国のベトナム侵略戦争(大々的な空爆と枯葉剤散布による無差別大量殺傷を含む)のその「罪」と「責任」については一言も触れなかった。
 人類全てに「罪」があるならば、誰にも「罪」はないということになり、よってその「責任」も誰もとらなくてもよいということになる。これは、1945815日に日本が敗戦した折に日本政府が唱えた「一億総懺悔」と全く同じマヤカシ論法である。敗戦(「侵略戦争」ではない)には国民全員に責任があるという「一億総懺悔」を国民に強いることで、日本帝国陸海軍大元帥である裕仁と軍指導者、政治家、高級官僚たちが無数の自国民とアジア人を殺傷したその「罪」と「責任」が、結局はウヤムヤにされしまった。安倍晋三は、このマヤカシ論法すらとらず、日本軍による侵略戦争とアジア太平洋各地で犯した様々な戦争犯罪という「罪」そのものがあたかも最初から存在しなかったような虚偽論法で、「罪」と「責任」問題を否定している。
 このような安部にとっては、米国大統領が広島で自国の原爆無差別殺戮の「罪」と「責任」を「人類全般」に負わせてウヤムヤにすることは、安部が自国の「罪」と「責任」問題の存在そのものを否認することに米国が暗黙のうちに共感し、支持していることを意味していた。オバマと安部の二人が広島の平和公園に並んで立ったことは、まさに、日米両国の「罪」と「責任」の否認を相互に認め合う儀式であったのだ。この儀式のために、「ヒロシマ」という場所と「被爆者」という戦争被害者が政治的に利用されたのである。そして「罪」と「責任」の否認の日米相互確認は、もちろん米国の「核抑止力体制」と日米軍事同盟の相互確認と表裏一体となっているものであった。
この日米の「罪と責任の否認」という共犯性を如実に表しているのが、原爆死者慰碑の碑文、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」である。なぜなら、この碑文は、原爆無差別大量殺戮という重大な「人道に対する罪」を犯した米国の大統領トルーマンをはじめ、それに加担した多くの米国の政治家、軍人、科学者の「罪」と「個人的責任」を追求することもなく、そのような重大犯罪を犯した米国の国家責任も追求しない。さらには、アジア太平洋戦争という侵略戦争を開始し、結局は原爆無差別大量殺戮を招いた、その日本の国家元首・裕仁や軍指導者、政治家たちの「罪」ならびに「個人的責任」、さらには日本の「国家責任」もウヤムヤにしてしまっている。その「責任ウヤムヤ」は、もちろん、「唯一の原爆被害国」と言いながら、米国の核抑止力を強力に支持するだけではなく、自国の核兵器製造能力を原発再稼働で維持し続けている日本政府の「無責任」と表裏一体になっている。
 そんな状況を隠しておいて、「過ちとは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した争や核兵器使用などを指しています」という、オバマの「所感」と同内容の広島市役所による碑文説明は、重大犯罪の「罪」も「責任」もウヤムヤにしているのであり、これがマヤカシでなければ、何と称するのか。国家による「大量殺戮」を正当化し、その「罪」も「責任」も否定することが、民主主義破壊行為でなければ一体何であろうか。再度述べておくが、そんな行為を平気で行う大統領や首相を褒めたたえることが低劣極まりない「愚行」でなければ、何と表現すればよいのか。
 アレントは、ナチスのユダヤ人虐殺命令に従うことを拒否した人間を次のように描写している。「殺人に手をそめることを拒んだ人は、『汝殺すなかれ』という古い掟をしっかりと守ったからではなく、殺人者である自分とともに生きることができないと考えたからなのだ」。私はもちろん「殺人者である自分とともに生きたくない」が、父親世代が犯した「国家殺人」を正当化し、その「罪」も「責任」も否認するような自分とともにも決して生きたくはない。



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