2017年11月19日日曜日

Publications 出版報告


1)Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War II  Second Edition
日本軍が主として南西太平洋各地で犯した戦争犯罪諸例を分析した1996年出版の拙著 Hidden Horrors の改訂増補版。ジョン・ダワーによる「前書き」も一新。 
2)拙訳 ジョン・ダワー著『アメリカ 暴力の世紀:第二次大戦以降の戦争とテロ』(岩波書店) Japanese edition of John Dower’s new book The Violent American Century: War and Terror Since World War II (Dispatch Books)

1) Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War II  Second Edition
with Foreword by John Dower.


https://rowman.com/ISBN/9781538102701/Hidden-Horrors-Japanese-War-Crimes-in-World-War-II-Second-Edition
This landmark book documents little-known wartime Japanese atrocities during World War II. Yuki Tanaka’s case studies, still remarkably original and significant, include cannibalism; the slaughter and starvation of prisoners of war; the rape, enforced prostitution, and murder of noncombatants; and biological warfare experiments. The author describes how desperate Japanese soldiers consumed the flesh of their own comrades killed in fighting as well as that of Australians, Pakistanis, and Indians. He traces the fate of sixty-five shipwrecked Australian nurses and British soldiers who were shot or stabbed to death by their captors. Another thirty-two nurses were captured and sent to Sumatra to become “comfort women”—sex slaves for Japanese soldiers. Tanaka recounts how thousands of Australian and British POWs were massacred in the infamous Sandakan camp in the Borneo jungle in 1945, while those who survived were forced to endure a tortuous 160-mile march on which anyone who dropped out of line was immediately shot. This new edition also includes a powerful chapter on the island of Nauru, where thirty-nine leprosy patients were killed and thousands of Naurans were ill-treated and forced to leave their homes. Without denying individual and national responsibility, the author explores individual atrocities in their broader social, psychological, and institutional milieu and places Japanese behavior during the war in the broader context of the dehumanization of men at war. In his substantially revised conclusion, Tanaka brings in significant new interpretations to explain why Japanese imperial forces were so brutal, tracing the historical processes that created such a unique military structure and ideology. Finally, he investigates why a strong awareness of their collective responsibility for wartime atrocities has been and still is lacking among the Japanese.

2)拙訳 ジョン・ダワー著『アメリカ 暴力の世紀:第二次大戦以降の戦争とテロ』(岩波書店)
本書の内容

第二次大および冷の覇者、アメリカ.そのアメリカは、どのような緯で現在の世界の混沌を生み出してしまったのか。敗北を抱きしめての著者があらたに取り組む、アメリカの暴力の歴史・軍事をめぐる歴史とテロなどの不安定の連鎖大の現について、簡潔に、かつ深く洞察した待望の書。トランプ時代を危惧する日本語版序文を付す。

「訳者後書き」からの抜粋

ここで描かれているのは、戦後これまでの70年以上にわたる「パックス・アメリカーナ(アメリカの支配による平和)」の追求が、実は、「平和の破壊」をもたらす連続であったということ。すなわち、「暴力的支配」が産み出す「平和の破壊」を、「支配による平和」に変えようとさらなる「暴力」で対処することによって、皮肉にも、「暴力」の強化と拡大を「戦争文化国家」である米国が、世界中で、繰り返し、悪循環的に産み続けてきたという事実である。現在のひじょうに不安定な世界状況が、いかなる過程を経て発生し、発展してきているのかが簡潔明瞭に理解できる分析となっている。

日本は、このようなアメリカに自国を軍事的にますます従属させるために、このわずか数年の間に、特定秘密保護法の導入、集団的自衛権行使容認閣議決定、明らかに憲法違反である新安保法制導入、沖縄米軍辺野古新基地の強権的な建設、原子力空母ロナルド・レーガンを中心とする第5空母航空団の岩国への移転、戦前・ 戦中の「治安維持法」なみの悪法である「共謀罪法」の制定などを、次々と推し進めてきた。さらには、北朝鮮攻撃を視野に入れた巡航ミサイル導入の計画や、最終的には憲法九条破棄を目指すスケジュールをも今や具体的に進めつつある。かくして、日本市民は米国の「グローバル・テロ戦争」へとますます深く引きずり込まれつつあり、日本社会もまた「戦争文化国家」への道を急速に進みつつある。このような危機的な時期であるからこそ、ダワーのこの著書『アメリカ 暴力の世紀』を、我々自身を見つめる鏡として熟読すべきであろう。

2017年9月19日火曜日

「ヤマザキ、天皇を撃て!」:奥崎謙三の「憲法第1章無効論」再考


反天皇制運動連絡会のニュースレター『Alert』9月号に寄稿した論考です。ご笑覧、ご批評いただければ幸いです。

九州の炭鉱労働者で秀れた作家でもあった上野英信(1923〜87年)は、「天皇制の『業担き』として」と題した短いエッセイの中で、次のような話を紹介している。

  1944年、わたしが旧満州国に君臨する関東軍の山砲兵であった当時のこと。わたしたちの起居する兵舎のかたわらに、夜になると幽霊が出るといわれる厠があった。古参兵の話によれば、一人の兵卒が歩哨として営内をまわっている途中、その厠に入って首を吊って死んだのだという。おそらくひどい腹痛か下痢のために我慢ができなかったのであろう。その兵士は軍律違反とは知りながらも厠にとびこんだのである。
  銃を厠の中にもって入ってさえいれば、たぶん彼は死ななくてすんだであろう。しかし、不幸にして、彼はそんな忠誠心のない兵隊ではなかった。彼は、畏くも大元帥陛下から授かった菊の紋章入りの銃を、厠の中にもちこむことはできなかった。彼は銃を厠の戸口に立てかけ、自分だけが中に入った。出てきてみれば、すでに銃は見当たらなかった。彼が厠に入っているあいだいに巡察の将校がきて、その銃をもちさってしまったのだという。
  哀れな兵士は、やがて彼の身に襲いかかるであろう冷酷な運命をしりつくしていた。彼はふたたび厠の中に入っていった。そして帯革をはずして梁にかけ、みずからの若い生命を断った。それ以来、彼が首を吊った厠の中から、夜ごと「銃を返してください……」「銃を返してください……」という、たましいをふりしぼるような声がきこえてくるようになったということである。

上野は、この話を単なる「天皇制の犠牲」の一例として紹介したわけではない。「その犠牲者の痛恨をわがこととしてとらえる苦悩と悲哀がなければ、けっして死霊を目のあたりにすることはありえない」という、彼の極めて個人的な想いからであり、この話の背後には、日本人だけではなくアジア諸民族の「言葉につくせないほど陰惨な死が」無数にあったという絶望的な痛恨からであった。しかも、その「痛恨」には、自分自身もまた戦争責任、すなわち天皇制の「罪と罰」を担っているという強烈な意識が含まれていた。彼は、この意識を、天皇制の「業担(ごうか)き」(北九州地方の言葉で、「バチカブリ」あるいは、「さらにどろどろした、重い呪咀を担う」という意味)と称した。つまり天皇裕仁と戦争に駆り出された自分たちは、「犬死」した無数の「死霊の呪咀」を受けとめ、それを担って生きてゆくほかには道がないのだという、壮絶な叫びであった。

1969年1月2日朝の新年一般参賀で、皇居長和殿東庭側ベランダに立った裕仁を狙って、25.6メートルの距離から、ニューギニア戦線での生き残り兵であった奥崎謙三がパチンコ玉3発をまとめて発射、続いてもう1発を「おい、ヤマザキ、ピストルで天皇を撃て!」と大声で叫びながら投射。裕仁には1発も当たらなかったが、奥崎はその場で即座に逮捕された。なぜ「ヤマザキ」なのか?おそらく、その「ヤマザキ」は、ニューギニアでほとんどが餓死した独立工兵第36連隊の自分の仲間の一人であったのであろう。奥崎は、前日の1月1日に上京し、ニューギニア戦の戦友の一人に会って、「自分なりの方法で戦友に対する慰霊祭を行うために上京した」と述べている。奥崎のこの奇抜な行動は、まさに上野が称した「業担き」であったと私は考えている。(因みに、当時はバルコニーに防弾ガラスが入っていなかったのであるが、この事件以降から入れるようになったとのこと。)真面目であればある人間ほど、「業担き」から精神的に逃れきれず、死者の怨念にとらわれていったと言えるのではなかろうか。(実は、このパチンコ玉発射事件の2時間後には、同じく天皇制反対行動として2人が皇居内で発煙筒をたくという事件が起きているが、二つの事件は全く無関係で、偶然に同日に起きたものである。)

奥崎謙三のパチンコ玉事件については、ニューギニアでの日本軍隊内部での(とりわけ人肉食をめぐる)犯罪行為を徹底的に追求する彼の行動を追ったドキュメンタリー映画、『ゆきゆきて、神軍』(1987年公開)の中でも取り上げられ、周知のところである。ところが、パチンコ事件で逮捕された奥崎が、法廷でいかなる弁護主張を展開したかについては、残念ながら、ほとんど知られていない。

奥崎は身柄拘束のまま起訴され、1970年6月8日の東京地方裁判所の一審で、暴行罪を定めた刑法102条違反として、懲役1年6ヶ月の有罪判決を受けたが、奥崎側も検察側も控訴した。二審は、東京高等裁判所で行われ、1970年10月7日に、一審と同じ懲役1年6ヶ月の有罪判決を受けた。しかし、二審では、一審の未決勾留日数の算定方法と意見が食い違ったため、二審判決は、形の上では「原判決破棄」の上で新しく出された判決となり、その結果、即日釈放された。暴行罪の法定最高限は懲役2年であるのに対して、1年6ヶ月という重い実刑判決内容だっただけではなく、逮捕されてから1年6ヶ月(604日)の間、一度も保釈されずに身柄を拘束され続けたのも、通例の暴行事件と比較しても異例なことであった。しかも、一審中では、被告人の申請を受け入れて、裁判所が保釈許可の決定を下したにもかかわらず、高裁の決定で却下されたため、保釈はされなかったのである。これは暴力行為の対象が、通常の市民ではなく、「日本国の象徴」の「天皇」裕仁であったことからの特別の処置であり、その意味では憲法第14条に抵触していたのではないかと考えられる。

この点を東京地方裁判所の裁判官・西村法も憂慮してか、暴力行為そのものについては「天皇に対し敢行された周到に準備された計画的な犯行でありその犯行の態度からみて、実害発生の危険性がかなり高いものであることからいえば、被告人の刑事責任が相当重い」としながらも、「被告人のようないわば確信犯については、刑に予防拘禁的な機能を含ませてしまうことを保し難いといわなければならないのであって、被告人の本件犯行の動機・経緯及び態様等の本件犯行に直結する情状にかんがみ、なお憲法第14条の趣意をも参酌すると、前示累犯前科の点を考慮しても本件について検察官主張のような刑法第208条の法廷刑を超える刑を量定することは適当ではなく……主文掲記の刑を量定した」(強調:引用者)と述べた。ところが、「憲法第14条の趣意をも参酌すると」という意味が、具体的にはいったい何を意味しているのかについてはなんの説明もされていないのである。

しかも、一方で「天皇」に対する暴力行為の「刑事責任が相当重い」とも主張しているのであるから、この場合の「憲法14条の趣意」とは、「法の下の平等の趣意」から「天皇も一般国民と同様に扱うべきであり、特別な法的保護を与えるべきではない」ということを意味しているのではなさそうである。そうではなく、むしろ「被告人が天皇と天皇制に対して反対意見をもっているからといって、それ自体を問題にしてはならず、一般市民に対する暴行罪と同様に扱うべきである」と主張しているように思われる。

ところが、二審判決は、明らかに憲法第14条に抵触する内容となっているだけではなく、奥崎の行動は憲法第1条に対する「犯罪行為」であるとまで厳しく断罪し、裁判長・栗本一夫は次のように述べたのである。「検察官の主張をみるに、所論がその理由の第一として、本件が日本国憲法によって、日本国の象徴日本国民統合の象徴としての地位を有する天皇に対する犯行であって、極めて悪質であり、社会的影響も甚大であるとする点に対しては、もとより同調する……(強調:引用者)。戦前戦中の「不敬罪」を想起させるような内容の判決文である。ところが、ここでも一審判決同様に、検察側の控訴要求は「暴力事件としては余りにも重きに過ぎる」として、同じ懲役1年6ヶ月の判決内容を量定した。つまり、明らかに判決内容に矛盾がみられるのである。天皇の存在には一般国民とは決定的に異なった特別の法的地位があり、したがって奥崎の行動が憲法第1条に対する由々しい犯罪行為であったと主張するなら、簡単に「一暴力事件」として処理することができないはずである。逆説的に言えば、奥崎の行動を一般国民に対する「一暴力事件」として取り扱うのであれば、天皇の存在に特別の法的地位を認めること自体に論理性がなくなるはずである。かくして、二審の判決では、一審判決が触れた憲法第14条には全く触れずに、この問題については意図的に言及を避けたように思われるのである。

ところが、私が最も重要だと思うのは、この二審判決を受けて奥崎が最高裁への上告のために準備した趣意書の内容である。それは、「極めて悪質であり、社会的影響も甚大な」、天皇に対する「犯罪」という二審判決に真っ向から挑戦した、見事な論理性をもった格調高い主張となっている。その主張の趣旨は、憲法第1章「天皇の規定」は、憲法前文の「人類普遍の原理」からして違憲無効の存在であるというものである。「人類普遍の原理」に言及する憲法前文の部分は、以下のような文章である。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。(強調:引用者)
いまさら説明するまでもないが、この前文を持つ現行憲法は、1946年10月29日に「修正帝国憲法改正案」として枢密院本会議で可決され、同日に裕仁が裁可し、11月3日に公布された。しかも、この公布日の11月3日には、裕仁が「日本国憲法の勅語」なるものを発表しているのである。つまり、憲法前文ではっきりと、「人類普遍の原理」に「反するいっさいの憲法、法令及び詔勅を排除する」と書かれた新憲法を発布するにあたって、この前文の内容を文字通り、あからさまに侵害する「詔勅」を裕仁が発表していたという、驚くべき事態があったことを我々はもう一度想起すべきであろう。
しかし、奥崎が上告趣意書で問題にしたのは「詔勅」ではなく、もっと根本的な「人類普遍の原理」と「天皇制」の関係である。奥崎いわく、

  一、二審の判決と求刑をした裁判官、検察官は、本件の被害者と称する人物を『天皇』であると認めているが、現行の日本国憲法の前文によると、「人類普遍の原理に反する憲法は無効である」と規定しており、『天皇』なる存在は「人類普遍の原理に反する存在であることは自明の常識であり、『天皇』の権威、価値、正当性、生命は、一時的、部分的、相対的、主観的にすぎないものであり、したがってその本質は絶対的、客観的、全体的、永久的に『悪』であるゆえに、『天皇』の存在を是認する現行の日本国憲法第一条及至第八条の規定は完全に無効であり、正常なる判断力と精神を持った人間にとっては、ナンセンス、陳腐愚劣きわまるものである。…… (強調:原文)
この奥崎の見事な喝破に反論するのは、ほとんど不可能のように思える。したがって、最高裁の上告棄却の反論が、全く反論の体をなしておらず、なんの論理性もない誤魔化しに終わっていることも全く不思議ではない。上告棄却は下記のようなごく短いものである。
被告人本人の上告趣意のうち、憲法一条違反をいう点は、被告人の本件所為が暴行罪にあたるとした第一審判決を是認した原判決の結論に影響がないことの明らかな違憲の主張であり、同法十四条、三七条違反をいう点は、実質は単なる法令違反事実誤認の主張であり、その余は、同法一条ないし八条の無効をいうものであって、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
つまり、憲法第1条と暴行罪は無関係であり、14条違反やその他の点に関する主張も、単なる「事実誤認」だと述べ、なぜ事実誤認なのかについての説明も一切しない。なぜなら、説明のしようがないコジツケだからである。
現行憲法の成立過程を見てみれば、憲法第9条は憲法第1章(1条から8条)で天皇制を守り維持するという、GHQと日本政府の共通の目的のために設置されたという当時の政治的背景があったことは否定できない。したがって、「人類の普遍原理」に基づく「憲法の理念」、それをある意味で具現化した「憲法9条」、それらと憲法第1章との間に根本的な矛盾があるのは当然なのである。この決定的矛盾を暴露するには、裕仁個人と(明仁を含む)天皇制自体の戦争責任をあくまでも追及する、市民の広範な「業担き」が不可欠であると私は強く信じてやまない。
田中利幸(歴史家、「8・6ヒロシマ平和へのつどい」代表)

2017年9月11日月曜日

民主主義は民衆の絶え間ない運動によって勝ち取り、維持していくもの


韓国からのメッセージ

9月1日は関東大震災から94年目にあたり、例年どおり東京墨田区の横網町公園では、震災直後に虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式が開かれた。ところが、今年は毎年行われてきた都知事と墨田区長の追悼文読み上げが行われなかったことは、すでにメディアでも広く取り上げられた。東京都知事・小池百合子は、追悼文を送らなかった理由について、この事件については「さまざまな見方があり」、虐殺の事実については「歴史家がひもとくもの」と述べて、結局は虐殺否定論を支持していることを暗示した。朝鮮人虐殺の事実は、日本政府中央防災会議報告書や司法省の「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」ではっきりと確認されており、東京では約300人、神奈川県で約180名、埼玉県での166名を含む合計800人以上の犠牲者がいたことが判明している。したがって、こうした厳然たる事実について「さまざまな意見」があったとしても、決してその事実を否定するような意見があってはならないことであり、歴史家たちはこの事実をとっくの昔に「ひもといて」いる。そのひもといた事実に蓋をして「ひもで縛る」ような犯罪的行為を小池が恥ずかしくもなくやっているのが現状なのである。同時に情けないのは、墨田区長である。こういう場合、本来なら、区長本人が出席して追悼文を読み上げると同時に、その場で堂々と知事批判をすべきなのである。
統一ドイツの初代大統領となったリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーのあの有名な演説の中の一節、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になる。非人間的な行為を記憶しようとしない者は、再び(非人間的な行為に)汚染される危険に陥りやすいのである」という言葉を、小池や墨田区長に送りつけたいと思うくらい情けない。事実を否定することによって、自分たちの人間性そのものが疑われるのであるということに、なぜこの政治家の連中は気がつかないのか、なぜこんな単純明快なことに気がつかないのか、私には不思議でならない。そのくらい鉄面皮で愚鈍でないと政治家にはなれないというのであれば、そんな日本の状況を黙認してしまうのはあまりにも哀しいではないか。
ちなみに、関東大震災直後に虐殺された朝鮮人の一グループに関する事実をフォークソングにしている、中川五郎のトーキング烏山神社の椎の木ブルースは感動的である。

ところで、今年23〜24日、「小田実没後10年の集い」が大阪と神戸で開かれ、多くの市民が参加した。私も日連続で参加させていただき、2日目に「今、小田実の目で天皇制問題と民主主義を考える」というテーマで報告させていただいた。第1日目の報告の中に、小田さんと親交の深かった韓国の詩人で評論家の金鐘哲氏のすばらしい評論があった。ご本人は体調をくずされて出席されなかったが、日本語がひじょうに流暢なご子息の金亨洙氏が原稿を日本語に翻訳され、それをご尊父に代わって会場で読み上げられた。私はひじょうに感動したので、金亨洙氏を通して金鐘哲氏のご承諾をえて、ここにその全文を紹介する。

この論考を読んで分かることは、韓国の人たちは、日本による植民地化に抵抗する「東学農民戦争」や「3・1独立運動」、また1960年の「4・19革命」での李承晩独裁政権打倒1980年の「光州抗争」、1987年の6・29「民主化宣言」による軍部独裁政権打倒など、長年にわたって植民地支配や独裁政権に対する民衆の抵抗運動をすすめる中で地道に民主化思想を培い、民主化運動を粘り強く推進してきたことである。今回の「ロウソク革命」も、そうした長い韓国の民主化運動の歴史の流れの中で理解しないと、その本当の意味が理解できないということ。これとは対照的に、金鐘哲氏が極めて厳しく、しかし的確に述べておられるように、「近代以降今日に至るまで日本は下からの民衆抗争によって政府を転覆させたことも、政権をかえた経験もない国です。……日本における民主主義は基本的に民衆の蜂起によるものではなく、敗戦後米軍の占領政策によって成立、制度化したのみならず、その後一度も市民の抵抗、闘争をもって政権をかえたことがないという事実は非常に重要です。

日本政治の「民主化」、日本における「民主主義の構築」ということを考えるとき、私たちは、隣国である韓国から学ぶべきことが多々あることをあまりにも知らなさすぎるのではないだろうか。また韓国の憲法の前文が、「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は、三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法統及び、不義に抗拒した四・一九民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して」という言葉で始まっているように、日本による植民地支配や独裁政権に対する民衆の抵抗運動を支えた思想が、憲法の基本理念でもある。私たちは、現行憲法の九条の重要性を強調しこれを堅持する運動ももちろん重要だが、隣国韓国のこの憲法理念からも何を学ぶべきか、大いに議論してみるべきではなかろうか。

韓国の「ロウソク革命」の中にいて
金鐘哲
(金亨洙 訳)

皆様にまず、お詫びを申し上げなければなりません。この度、小田実先生の没後10年の記念行事に健康上の理由により参席できませんでした。改めまして、お詫び申し上げます。今日は主催側のご配慮をいただき、このようにメッセージを送らせていただくことになりました。つきましては、おそらく日本の皆様にとって、この頃もっともご興味をお持ちであろう最近の韓国の情勢について簡単な説明を申し上げたいと思います。
日韓の両国は地理的にも最も近く、歴史的にも非常に密接な関係を結んできた仲にもかかわらず、残念ながら相互間の理解においては非常に乏しいのが今日の実情ではないか、と考えております。一般の市民はもちろん、知識人においても事情はさほど変わらないと思います。
卑近な例としては、太平洋戦争期に行われた代表的な人権蹂躙の事例ともいえる日本軍慰安婦問題がそうであります。慰安婦問題は単なる人権問題であるだけでなく、日本という国が戦争と植民地支配といった歴史的な過ちを清算し、平和を目指す国として、アジアの隣人諸国と友好的な関係を築いていくためには必ず解決しておかなければならない、重大な問題です。しかしながら、日本の支配層や保守的なメディアは言うまでもなく、所謂リベラルな立場にある知識人やメディアもこの慰安婦問題に関しては、私のような韓国人の立場からみますと、非常に安易な姿勢で臨んでいるように見えます。一昨年前に安倍政権と韓国の朴槿恵政権が「不可逆的」に妥結されたと発表した慰安婦問題に関する合意に対して多くの韓国人は憤りを覚えました。なぜならば、両国の政府が、慰安婦問題の当事者でありながら今もなお生存している高齢のハルモニ(おばあさん) たちの意思を確認することもなく、この問題をもっぱら政治的打算だけに基づいて妥結させたからであります。実際、韓国政府は日本側が払うと決まった10億円というお金が「謝罪金」なのか、それとも人道的な援助金なのかについて明確に説明できませんでした。両国間の合意が発表された後、日本政府が示した態度を見ますと、あのお金は謝罪金でも賠償金でもないということがはっきりしました。日本政府と日本の支配層には慰安婦問題に対する真摯な責任の意識も、そしてお詫びの意思も全くないということを彼ら自ら露わにしたのです。彼らは慰安婦強制動員の証拠はないという、古びた主張に未だに固執しています。ところで、驚くべきなのは日本の保守既得権勢力はともかくも、なぜ日本の良心的勢力、つまり民主主義を信念とする知識人さえもが、この当事者が完全に無視され行われた慰安婦問題処理について根本的な問題提起をせず、だいたいにおいて受容するような態度を見せているのかという点です。この事実から見ても私は日韓の間における相互理解はまだ程遠いと感じざるを得ません。
それはまた最近展開された韓国の大規模のロウソクデモの経過と成果に対する日本のメディアが示した反応からも窺えます。今韓国の市民の大多数は、昨年の10月から今年の春にかけて行われた「ロウソクデモ」を通して現職の大統領を罷免(弾劾)し、新しい民主政府を誕生させたことについて相当な自負心を持っております。しかし、今回の「ロウソク革命」について日本の極右あるいは保守的なメディアの概ねの論調は民主主義後進国で起きた「混乱事態」として見なす傾向が見られました。それは、私に言わせれば、意図的であるかどうかは分かりませんが、状況を根本的に誤読している、とんでもない論調であります。
我々皆がよく理解しているように民主主義は自然に与えられるものではありません。この上ないような険しい闘争を経て初めて味わえるのが民主主義という果実です。民主主義は血を吸って育つという言葉は万古不易の真理と言えるでしょう。
韓国の私たちから見ますと近代以降今日に至るまで日本は下からの民衆抗争によって政府を転覆させたことも、政権をかえた経験もない国です。そのため日本の民主主義はその実体が非常に貧弱している民主主義だと言えるかもしれません。日本の戦前や戦後において民主主義のために戦った数多くの運動があった事実を否定するわけではありません。しかし日本における民主主義は基本的に民衆の蜂起によるものではなく、敗戦後米軍の占領政策によって成立、制度化したのみならず、その後一度も市民の抵抗、闘争をもって政権をかえたことがないという事実は非常に重要です。
定期的に選挙を行い、政党政治と議会制を維持することで自ずと民主主義が実現する訳ではありません。政党政治と代議制民主主義という形式をとりながらもその実際の内容は事実上の独裁体制あるいは少数既得権支配層による寡頭支配体制であるというのは決して珍しいことではありません。韓国の歴代軍事独裁政権も定期的に選挙を行い、形式上の議会を維持していました。日本を長期間に渡って支配してきた自民党政権や現在の安倍政権もそうであり、そしてアメリカの政治も選挙と議会政治のもとでますます民主主義から遠ざかっていく実態を、我々は今目撃しています。
このような政府の特徴は民主主義を標榜しながらも実際には平凡な市民たちの要求を無視し、 国家を私的利益の追求手段とし、既得権支配層の利益ばかりのためにのみ働くということです。 しかし民主主義とは本来自己統治の原理に基づいて動く政治システムです。要するに民衆が主権者としての権限を実際に行使することができてこそそれを民主主義と呼べるのです。ところが、世の中はほとんどの場合豊かで権力を持つ少数の強者と、貧しく力のない多数の弱者に分かれています。そのような状況のなか、既得権者と権力者たちが、その富と権力、そして特権的な地位を自ら譲歩することは滅多にありません。ですから、民主主義を実現していく過程というのは至難な闘争の連続になるしかありません。形式的で手続き上の民主的制度が施行されているからといって安堵していては、富と権力を独占している支配層がいつの間にか独裁ないし権威主義的な体制を作り上げ、多数の民衆を事実上の奴隷にすることさえあり得るのが冷静な現実です。従って、労働運動、人権運動、反戦平和運動、環境運動は言うまでもなく、市民たちの自発的な集会やデモ行為は民主主義を守り、また死にかけている民主主義をよみがえらせるための不可欠な要素だと言えます。
このようなことについて韓国人は歴史的経験を通じて誰よりもよく分かっています。普段はあら ゆる苦痛や不満があってもそれに耐えますが、決定的な瞬間には躊躇なく抵抗的行動に打って出るのが韓国近代の民衆運動の歴史において大きな特徴となっています。そうしない限り、支配勢力はちっとも譲歩しないし、奴隷的な生を強要される状況は少しも変わらないという事実を、韓国人は長年にわたった植民地と独裁の時代を通して痛感してきました。李承晩独裁政権に抵抗した 19604月の経験、1980年の光州抗争、そして軍部独裁政権の終焉をもたらした19876月の闘争はそのような抵抗運動の大きな流れを成してきた代表的な事例です。この度のロウソク革命も結局その流れの延長において展開された闘争だったと言えます。
ところで、今回の闘争の大きな特徴は、終始一貫してロウソクを持つだけで、きわめて平和的に行われたという点です。デモに参加した市民たちは一つのスローガンを集中的に叫びました。それは、「大韓民国は民主共和国だ」という叫びでした。数多くの人々が参加した集会、デモでしたので各々の生活上の苦痛や不満を吐き出す様々なスローガンが叫ばれてもおかしくない状況でしたが、はじめから終わりまで、市民たちは大韓民国の主権は国民に有り、全ての権力は国民から生ずるという憲法第1条をひたすら叫ぶことに集中したのです。
近年、世界経済が停滞し、また経済成長も落ち込むなかで、その影響は世界の様々な国に及んでおります。その中でも貿易に対する依存度が非常に高い韓国経済は世界資本主義経済のなかでも特に脆弱だと言えます。その結果将来に対する希望を失ってしまった青年世代は自らの運命を呪い、今日の韓国の状況を「ヘル朝鮮」(地獄のような朝鮮)と呼び、自嘲してきました。当然、 彼らがロウソクを持ち、街に出てきた際には彼らにとって最も切実な問題、つまり学費問題や雇用問題等、彼ら自身の苦しい生活や将来への展望にかかわった要求を主張するであろうと思えたのですが、彼らはそうはしませんでした。また、今日における韓国の低賃金労働の実態は大変悲惨であり、非正規労働者数は全体の労働人口のほぼ半分を占めています。それにも拘わらず、最低賃金の引き上げの要求や労働運動の自由を唱える代わりに、「大韓民国は民主共和国である」というスローガンばかりが聞こえました。これは非常に大事な事実です。
青年たちや労働者を含むデモに参加した市民は、自ら抱えている問題が如何に切実であろうと、 その全ては民主的な政府が成立しない限り解決の糸口さえもつかめないということを、よく理解していたのです。それで彼らは、名実ともに民主政府を成立させることより急務はないと認識し、その認識を「大韓民国は民主共和国である」というスローガンに込めていました。
考えてみれば、真の意味での民主政府を立てようとする韓国人の戦いには100年を超える歴史があります。その歴史は1894年勃発した東学農民戦争からはじまったと言えます。朝鮮王朝の末期、無能で腐敗していた王朝とまた外国からの侵略に抵抗し、農民たちが中心となり蜂起したのですが、この民衆の蜂起は結局愚かな支配層と外国の軍隊、特に日本軍によって徹底的に潰され挫折に至りました。しかし、当時の抵抗の精神は日帝植民地時代、そして解放後の分断時代の独裁政権の下でも力強く持続してきました。
現在韓国の憲法前文には大韓民国は1919年の31運動の精神を継承し、また31運動の直後独立運動家たちが中国の上海にて設立した大韓民国臨時政府の法統を受け継ぐと明示されています。 そこで注目すべきは、19194月に成立した臨時政府がその憲法において大韓民国を民主共和国として規定しているところです。当時臨時政府に集った独立運動家たちはほとんどが高いレベルの教育を受けた知識人でした。従って彼らは朝鮮王朝時代の儒学精神をある程度以上身につけており、また朝鮮王朝時代に恵まれた階級であった両班階級の出身でした。それでも彼らは王朝体制の復元ではなく、完全なる近代国民主権国家、即ち民主主義と共和主義の原理に基づいた新しい国を構想したのです。これは31運動というのが、外国の圧制からの解放を求める単なる民族独立運動という枠を超えて、多数の民衆が奴隷ではない、主体的な人間として生きていける社会のための戦い、つまり、全面的な民衆解放を目指した闘争であったからです。そしてこの点はまた31運動が基本的に1894年の東学農民戦争の精神を継承した運動であったことを強力に示唆しています。東学農民戦争を率いたチョン・ボンジュン将軍は本来は儒学者だったのが東学の地域指導者になった人物ですが、後に官憲に逮捕され尋問を受けた記録を見ますと、彼が目指していたのは地方における自治と中央政府においては合意制を基盤とした一種の共和主義政治体制であったことが明らかになります。
ここまで皆様のご理解のため、韓国近代史における重要な流れ、その中でも民衆抵抗の歴史を簡単に述べましたが、この流れを念頭に置かないと今韓国でなぜ「ロウソク革命」といった用語が用いられているのかについて理解することが難しくなるかと思います。今日に至るまで植民地支配や独裁政権に対する抵抗運動は時折相当な成果をあげたこともありましたが、その過程において民衆は残酷に虐殺されることもあり、またその運動の後遺症としてより強力な反動的支配体制が成立することもありました。しかしながら、今回ばかりは異なりました。一滴の血も流すことなく現職の大統領を法律が定めた厳格な手続きに従って罷免(弾劾)し、またその犯罪行為をもって拘束し、現在は裁判が行われています。それのみならず、また現状において最も民主主義的価値に充実な人物を新しい大統領として選出することに成功したわけです。新政府の文在寅大統領は元々人権弁護士として活躍してきた人物で、また民主的政府であった盧武鉉政府にて大統領の最側近として実際の国家運営を経験した人物でもあります。彼は大統領に就任する際に、自らが権力者では なく、ただ大統領の職を任された国民の一員であることを、決して忘れまいと強調しました。これは自身が如何にして、またなぜ大統領として選ばれたかを誰よりもよく理解していることを示しています。就任してから3ヶ月が経とうとしていますが、この間が一貫して見せた行動を見ますと、私的利益の追求のために国家権力を使ってきた前任者とは全く異なる、共和主義に徹している様子です。彼は側近にあたる人々を権力から排除し、有能な適任者を選び組閣しようとする努力を見せておりました。また国家のもっとも重要な役割は社会的弱者を労ることだと、はっきりと理解している人こそが行える言動を見せ続けています。
それで彼は就任後まず解決すべき課題として若者たちのための仕事を作ると公言し、同時に数多くの非正規労働者の正規雇用のための様々な取り組みを提案、また実行に移しています。先日には 国会内外の既得権勢力と保守メディアの頑強な抵抗と反対を押し切って、労働者最低賃金の大幅引き上げを断行する勇気も見せてくれました。
ところで、文在寅政府の新たな政策や提案を取り上げるより重要なことがあります。それは長年頭痛の種となっていた懸案である老朽化した原発--古里原発1号機--を閉鎖するとの決定を下し、またそれに続いて現在建設中の新しい原発の建設工事を一時中断させ、その工事再開は市民の決定に委ねると宣言したことです。興味深いのはその具体的なシナリオです。従来、国家の重大事はほとんど例外なく権力者や官僚、いわば専門家によって決められてきましたが、今回はそれを市民たちが主体となった市民陪審員団を構成し、そこでの充分な熟議や討議を経た決定に政府が従うとしたのです。
市民陪審員団は実質的に熟議や討議ができる小規模の会を指します。そしてこの会は一般の市民から無作為のくじ引きで選ばれた人々で構成されるとなっています。これは注目すべき点です。実はこの市民陪審員団というのは世界各国で既存の代議民主主義が持つ欠陥や限界を補うために実行されている「熟議民主主義」の一つの形です。例えばデンマークでは大分前から市民合意会議という名称のもとで、科学技術に関連する重要な問題をこのような方式をもって議論し、決定してきており、アイルランドやアイスランドでは近年、憲法改正について市民議会を構成し議論する仕組みを作り上げ、実行してきました。つまり、市民議会、市民合意会議、また市民陪審員団制はその名称こそ異なりますが、その内容は同様であり、これら全ては無作為の抽選方式を用いて平凡な市民たちが主体的に参加し、国家や地方自治体の重大事を決めるように設計された制度である、という特徴を持っています。実際にアメリカの法廷にて長らく行われてきた陪審制や近年日本と韓国でも導入、実行している裁判員制度、あるいは国民参与裁判制度も根本的には同じ原理に基づいた制度であります。
このように国家の重大事を抽選で選ばれた市民代表の主体的な決定に委ねるというのは古代ギリシャにおける民主主義の精神と原理を現代の状況に応じて復活させようとする試みだと言えるでしょう。ご存じのように古代アテネでは戦争の指揮官や財政官など特殊な能力や技術を必要とする職責以外の全ての行政官や裁判官を抽選方式で選びました。少数のエリートによる支配を防ぐためでした。選挙ではどうしても有名な人物や富裕層など、社会的特権層が当選されやすいため、そのような選挙制度が維持されるとエリートたちだけが権力を独占するシステムが膠着してしまい、結果として平凡な民衆の政治的発言の権利は必ず縮小してしまうと、古代のアテネ人たちは分かっていたのです。そしてアテネの人々は権力を手にした人間はほとんどの場合その権力を独占的かつ永久的に享受したいという誘惑に陥りがちであるという事実についてもよく理解していました。そのため彼らは特別な境遇を除いては全ての公職を平凡な市民のなかから抽選で選んだのです。あのアリストテレスも選挙は貴族政を維持する制度である反面抽選は民主政を維持する制度であると言ったわけです。
この頃、世界的に民主主義が衰退し、極右ファシストや権力欲のあるポピュリストが民衆を扇動し政治的指導者として登場する例が多く見られるようになりました。これは既成のエリート中心の政治に大衆が幻滅を覚えるようになったことと、選挙制度が本来有する限界とが相まって起こる現象とも理解できます。その意味において、民主主義を蘇らせるには、一挙に、また全面的に導入するのは難しいとしても、漸進的でまた部分的であっても上に述べた抽選制度を用いることが必要ではないかと思っております。
このようなアイディアは、もちろんかつてから多くの学者、知識人、思想家たちが既に提示してきたものですが、その代表例として私たちは小田実先生を挙げなければなりません。小田先生は 平和と民主主義のために尽くしたご自身の思想の出発点が古代ギリシャの民主主義であると考えておられました。小田先生が最後に残してくださった著作のタイトルが『オリジンから考える』となっているのは決して偶然ではないでしょう。
民主主義は複雑な理論を必要とする思想ではありません。民衆が自らの運命と暮らしを自らの力で決めていく、即ち自己統治の原理を具現するのが民主主義です。今日の世界は政治経済的にも、環境的にも、倫理的にも多大な危機的状況に置かれており、核戦争の可能性も今なお存在しています。この危機的状況を打開していくためには強力な指導者が必要だとファシストたちは主張しますが、実際に最も必要なのは真の民主主義の実践であることは明白な事実です。この点を考えても、今韓国で「ロウソク革命」の成果として民主政府が成立し、これまで積み重なってきた様々な弊害を一掃し、民主的価値と制度を蘇らせるために進めている多様な実験は、日本の皆様が関心を持ち、また注目してくださるに充分に値する価値があることだと私は思っております。ご清聴ありがとうございました。(2017722)




2017年6月29日木曜日

「日本軍性奴隷」をめぐってメルボルンで最近起きた問題

「慰安婦少女像を爆破しろ」という杉田水脈とメルボルン桜会の動きについて

今月1日、安倍政権は韓国釜山の森本康敬総領事を退任させましたが、たった1年ほどでの退任は事実上の更迭であることは間違いありません。その理由は、森本領事が私的な会食の場で安倍晋三の「慰安婦問題」をめぐる韓国との対応を批判したからということが、複の政府関係者の話として報じられているとのこと。「私的な会食」でということは、その会話の内容を密かに安倍あるいは、安倍に近い人物に伝えた人間がいるということです。なんとも恐ろしく汚れた世界ですね。そしてつい先日、米国ジョージア州アトランタの篠塚隆日本総領事が、同州の小都市ブルックヘブンの市立公園の中に「平和の少女像」(いわゆる「慰安婦少女像」)が建立されることに反対して、「慰安婦は売春婦」、「少女像は純な芸術造形物ではない、日本にする憎と怒りの象物だ」と主張し、物議を呼んでいます。

この2つの事件から、おそらく外務省の領事レベルの官僚にまで、安倍政権の「慰安婦」問題に関する相当強い圧力がかかっているのだということが推測できます。それにしても、篠塚の言動は低劣ですね。「少女像」が日本にする憎と怒りの象物」であると考えるなら、ごく普通の人間なら、ではなぜ日本は韓国からこの問題で「憎悪と怒り」を買うのか、その理由について考えるはずですが、そうした思考さえ働かないようです。私自身は、「憎悪と怒りの象徴」ではなく、性暴力被害者の「痛みと悲哀の象徴」であると考えます。「憎悪と怒り」を恥ずかしくもなく国内外でマル出しにしているのは、むしろ安倍晋三であり、そんな恥ずかしい「憎悪と怒り」を、これまた恥ずかしくもなく代弁する領事には軽蔑感しか感じません。

ちなみに、「日本軍性奴隷」問題に関しては、最近、とてもよいアニメが制作されたことを、広島の「日本軍『慰安婦』問題解決ひろしまネットワーク」のあるメンバーの方から教えていただきました。下記がそのアドレスです。https://m.blog.naver.com/herstory2011/221033430219
このアニメの中の元日本軍兵であった老人の証言は、本名が根本長寿さんという、本当に戦時中に捕虜を殺し「慰安所」にも出かけた自分の体験を証言されているその生の声をそのまま使っています。このアニメを見て思い出すのは、井上俊夫著初めて人を殺す 老日本兵の争論(岩波現代文庫)です。この著作に関しては、私のこのブログの下記アドレスを参照していただければ光栄です。
なおまた、根本長寿さんは今年4月に97歳で亡くなられましたが、お孫さんの根本大さんがすばらしいサイトを開設されています。

実は、「日本軍性奴隷」問題では、最近、メルボルンでもある事件が起きました。ごく最近メルボルンで立ち上げられたと思われる「メルボルン桜会」(ごく少人数の日本人女性の集まりのように思えます)なる組織が、これまた低劣極まりない杉田水脈(すぎたみお)なる右翼女性を日本から招いて、メルボルン郊外のベイサイド市のハンプトン・シニア市民クラブを会場に、今月11日に講演会を開く予定であるという情報が、私に入ってきました。杉田水脈などという人物については、それまで私は聞いたこともないので、少し自分でも調べたり、他の人たちにも尋ねてみました。
彼女は前衆議院議員(いまの国会議員の知的低劣さからみれば、彼女が議員であったことも全く不思議ではないですが)で、日本軍性奴隷制度(いわゆる「慰安婦制度」)などは 存在しなかったのであり、「慰安婦」は多額のお金を受け取っていた売春婦であるという類の主張を、日本国内のみならず、米国や国連の女性差別撤廃委員会の場にまで顔を出して行っており、国連人権委員会のメンバーにも、戦争被害者の人権保護という観点から極めて問題のある人物とみなされているらしいです。さらに、杉田は、韓国や米国の「慰安婦少女像」は爆破すればよいと、テロ行為を扇動するような発言までしています。彼女はまた、アジア太平洋戦争中に日本軍が各地で犯した様々な残虐な戦争犯罪行為の歴史的事実とそれらに対する日本の責任を全面的に否定する「日本会議」にも連なっているようです。
こんな人物が、いくら少人数の在豪日本人のグループを相手にとはいえ、戦争犯罪の犠牲者である元「日本軍性奴隷」の女性たちの人権を再び蹂躙するような講演会をやることを、黙って見過ごしては絶対にならないと思いました。「日本軍性奴隷」にされたオランダ人女性の一人、ジャン・ラフ・オハーンさんは、戦後、オーストラリアに移住され、アデレードに今もご健在ですので、なおさら許せないことです。私は、当日、会場に出かけ、講演の邪魔は決してしないが、講演者には厳しい質問を浴びせ、同時に、「日本軍性奴隷」に関する基本的な情報を伝える私が作成する資料と、広島から急遽送ってもらうことになった日本軍「慰安婦」問題解決全国行動が作成したリーフレットを参加者に配布することにしました。
配布する資料を私が作成している間に、私が聞いたところでは、主催者が、講演の宣伝依を英語で発信し、講演会のチラシ(日本語)が添付されていたそうです。ところが、英語で書かれた依と、日本語のチラシの容が全く違う。そこで、依が回ってきた人は、会場を提供している市に問い合わせたそうです。はじめてチラシのことを知った市側は討の結果、主催者が正しい手きを踏んでいなかったことが判明したので、使用中止にしたとのことです。使用中止になったのが、講演日の数日前でした。
メルボルン桜会は、会場を変更しても11日には講演を実施することをソーシャル・メディアで発表しましたが、会場と時間については当日になっても発表しませんでした。したがって、会場がどこになったのか分からなかった私は、出席することができませんでした。おそらく、どこからか講演者や講演内容に関する情報がベイサイド市役所に流されて、邪魔されたとメルボルン桜会では考えたのでしょう。再度邪魔されるのではないかと不安になって、会場と時間の詳細を会員とその知人にのみ個人的に知らせたと思われます。おそらく参加者はひじょうに少なかったと思います。後日、分かったことですが、会場は元の会場と同じ地域にあるパブの一室を借りて開いたとのこと。(ちなみに、メルボルン桜会は「南京虐殺否定」に関する映画上映会を7月7日に開くことを計画しているようですが、これについても会場と時間を発表していません。)
ところが、問題なのは、この講演会にメルボルンの新任の松永一義総領事が出席したということが、杉田の講演後のフェイスブックでは書かれています。この真偽のほどを確認するため、私を含む数名のオーストラリアの日本研究者の連名で、松永総領事が本当に出席したのかどうか、出席したのであればどのような目的で出席したのかを問い合わせる書簡を先週、総領事宛に送りました。その書簡の内容の詳細はここでは紹介しませんが、総領事の回答があれば、このブログで紹介します。
杉田は、やはり講演後のフェイスブックで、私の個人名をあげ、おそらく私が講演の邪魔をしたのであろうと書いています。私の存在が彼女に知られているのは光栄には少しも思えませんし、私は彼女の講演を止めさせようなどとは考えもしませんでした。すでに説明したように、最初の講演会場が使用中止なったことは、私自身も後で聞くまで知りませんでした。右翼であろうと左翼であろうと、誰であろうと、言論思想の自由を侵されてはならないことは言うまでもありません(ただし、ヘイトスピーチのように、個人の名誉と人権を侵すような言動は決して許されてはなりませんが)。私は、むしろ、会場に出かけて、厳しい質問を浴びせ、資料配布ができることを望んでいました。それはともかく、彼女は、私が「日本軍性奴隷」問題に関する英語の本を出していることも人伝に聞いているようですが、読んだことはないらしく、題名を『チャイニーズ・コンフォート・ウーマン』と全く間違って書いています。「せっかく紹介するなら、正しい題名を使ってくれ!」と言いたくなります。私のこの英語の本は、Japan’s Comfort Women: Sexual Slavery and Prostitution during World War II and the US Occupation (Routledge 2002)です。
ちなみに、安倍や安倍のお仲間右翼が「慰安婦は売春婦だった」というのにはもちろん私は反対ですが、実は、「慰安婦は売春婦でなかった」という言い方にも私は少々違和感を感じるのです。私自身も「慰安婦は売春婦でなかった」という言い方をしばしば使いますが、違和感を感じながら使っています。なぜなら、私は、売春婦も(本人が自覚していようがいまいが)根本的には「性奴隷」であるというのが私の考えだからです。「慰安婦は売春婦でなかった」と言うことで、売春婦の女性を差別し、買春を肯定してしまうことがここには隠されているからだと思うからです。売春婦が、なぜ根本的には「慰安婦」と同様に性奴隷であるのかについての持論は、すでに私は自分の論考「国家と戦時性暴力と男性性」で詳しく説明していますので、ご興味のある方はこれをご参照ください。実は、この論考は、上述の私の英語著書の結論部分だけを日本語にしたものです。
いまはあまり時間がないので、もうこのへんで今日は終わりにしますが、杉田の講演会で配布しようと思い作成した資料もダウンロードできるようにしておきます。右翼が主張するような内容と思われる想定質問の設定を行い、それに回答するという形で「日本軍性奴隷」問題の基本情報を提供しています。活用していただければ光栄です。ご自由に編集しなおして使っていただいても結構です。
「国家と戦時性暴力と男性性」
日本軍性奴隷に関する質問と回答





2017年6月1日木曜日

8・6ヒロシマ平和へのつどい2017




 今年の「8・6ヒロシマ平和へのつどい」のプログラム詳細が決まりましたのでお知らせします。
  安倍政権になってから、すでにそれ以前からひどかった日本の状況はますます悪くなってきていますが、今年はトランプ政権の誕生と重なり、日本、アメリカだけではなくアジア、とりわけ東北アジアの状況が急激に悪化。同時に中近東、とくにシリア、イラクでは危機的状況が相変わらず続いています。国家テロと非国家テロの両方の無差別攻撃も止みません。
  アメリカの傑出した日本近現代史の専門家ジョン・ダワーは、近著 The Violent American Century (アメリカの暴力的世紀)の結論章の最後の文章を、次のような表現で結んでいます。アメリカが常に正しく、最も偉大であるという「神秘観念には、無責任、挑発、残忍な軍事力への陶酔、偏執狂、傲慢、容赦のない犯罪行為に、そして犯罪的怠慢にさえ、真剣に考慮を払うという機能が欠落しているのである。」同じことが安部晋三にも言えます。「安倍晋三というマフィア政治家には、無責任、挑発、残忍な軍事力への陶酔、偏執狂、傲慢、容赦のない犯罪行為に、そして犯罪的怠慢にさえ、真剣に考慮を払うという能力が欠落しているのである。」
安倍政権は、打倒しなければなりません。しかし、安倍政権を打倒すれば事は済むかというような単純な問題ではありません。武藤一羊氏が提言されているように、安倍を打倒し、どのような新しい社会構築をめざすのか、そうした構想がない限り、希望のある展望を切り開いていくことはできません。
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8・6ヒロシマ平和へのつどい2017
 憲法破壊と腐敗の政治=安倍政権を根っこから打倒しよう!
講演者:武藤一羊さん
講演内容:
   安倍政権を倒してどんな社会をつくるのか
   象徴天皇制を越える展望を論じよう

 公権力を私物化し法の支配を冷笑する安倍マフィアともいうべき現政権は、2020年、オリンピックの祝祭ムードのなかで、新天皇と新元号のもと、彼らの新憲法を公布すると開き直った。戦後の日本列島の民衆が積み上げてきた平和、人権、主権在民の実績を一挙に覆し、私たちを国家に仕える臣民にかえる目論見である。私たちはこの企みを挫折させる本来の力をもっている。
 だがその力を本当に発揮するためには、安倍政権を倒すたたかいを通じて、私たちがその先にどのような社会をつくるのかを真剣に考える時期がきている。昨夏の明仁天皇の生前退位声明以来、象徴天皇制が新たに政治の中心に浮上した。安倍改憲を挫折させるには憲法をまるごと守らなければならない。しかし、こうして安倍政権を打倒した向こうに、私たちは、何を見るのか。天皇の象徴権力によって統合されている日本社会を見るのか。戦後国家からその最良の遺産を引き継ぎつつ、私たちは、どのような列島社会をつくろうとするのか、そこにいたる道筋は何か、それらをめぐる活発な運動相互間の討論と探求は、安倍を倒す運動をかならず強めるだろう。私はそう確信する。


 



武藤一羊プロフィール
 日本を代表する社会運動家であり、傑出した政治評論家。1952年、講和安保両条約発効抗議運動によって東京大学文学部を退学処分。その後、優れた英語力を活かして原水爆禁止日本協議会国際部に勤務。1965年、小田実や鶴見俊輔と共にベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の結成、運営に参加。1973年、北沢洋子らとアジア太平洋資料センターを結成し、1996年まで代表を務める。1998年、ピープルズ・プラン研究所を結成し、現在も運営委員を務める。国内はもとより海外の多くの活動家や
有識者との広いネットワークを持つ。1983年から2000年まで、ニューヨーク州立大学ブリングハムトン校の社会学特任教授として、毎年、短期間アメリカに滞在し、日本とアジアの社会政治問題について講義。数多くある著作の中で、主たる著書としては、『政治的想像力の復権』、『<戦後日本国家>という問題』、『帝国の支配/民衆の連合』、『アメリカ帝国と戦後日本国家の解体』、『潜在的核保有と戦後国家 』、『戦後レジームと憲法平和主義』などがある。
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<呼びかけ文>

 米国は、アジア太平洋戦争を終わらせるために戦略的には全く必要でなかった原爆を、もっぱらソ連の対日戦争開始を避けるためという政治的目的から、日本に対して使うことを計画。そのため、原爆が完成するまで日本が降伏しないような画策、すなわち日本が自ら米国の原爆使用を誘引させるような画策を企て実行しました。一方、天皇裕仁と日本軍・政府指導者たちは、降伏条件として「国体護持=天皇制維持」にあくまでもこだわり、「国体護持」を確実にするために降伏を先延ばしにしたことで、米国による広島・長崎への原爆攻撃を誘引しました。かくして、原爆無差別大量虐殺の責任は、米国の「招爆画策責任」と日本の「「招爆責任」の複合的責任に求められます。
 ところが、戦後、米国は戦争を終わらせるには原爆が必要であったという原爆使用正当化の神話を打ち立て、「招爆画策」および20万人以上にのぼる無差別市民大量殺戮の犯罪性と責任を隠蔽しました。他方、日本側は、原爆によってもたらされた戦争終結によって、一部の軍人に利用された「国体=天皇」から、本来あるべき姿である「平和の象徴的権威」としての「立憲主義的天皇」を取り戻し、維持していくのだという詭弁を弄することで、裕仁と日本政府の「招爆責任」と自分たちがアジア太平洋各地で犯した様々な犯罪に対する戦争責任をうやむやにしてしまいました。つまり、日米双方の国家指導層が、それぞれの思惑に沿って、原爆が持つ強大な破壊力、殺傷力の魔力を政治的に利用し、その双方の政治的利用方法を互いに暗黙のうちに受け入れて、「ポツダム宣言受諾」となったのです。「戦後」という時代は、したがって、「原爆」をめぐっての互いの重大な戦争責任の放棄相互了解を出発点にしていたのです。
 この「戦争責任放棄の相互了解」を基礎に、日米安保条約が結ばれ、日本政府は、アメリカの核兵器大量殺戮の欺瞞的正当化を受け入れ、同時に「戦争終結の理由」としてそれを政治的に利用しただけではなく、その後も現在に至るまで米国の核戦略を支持してきました。その上で、いわゆる「核の平和利用」=原発推進政策をがむしゃらに維持し、事実上、米国の核兵器保有と「核による威嚇」を強力に支持。他方、米国側は、日本帝国陸海軍大元帥であった裕仁の戦争責任を不問にしました。それどころか、日本政府と共謀して「裕仁は平和主義者」という神話を作り上げ、彼の戦争責任を日本側が隠蔽することに積極的に加担し、天皇制を存続させて、それを日本占領政策に、さらには占領終了後の日米安保体制下での日本支配のために利用し続けてきました。
 こうした日米両政府による共同謀議の画策ゆえ、大多数の日本民衆はアジアに対する確固たる「戦争責任」意識を持つどころか、自分たちをもっぱら「戦争犠牲者」と見なし、しかしながら、同時に米国による自分たちへの戦争加害の責任も問わないという、「戦争責任」自覚不能の状態にあります。自分たちの加害責任と真剣に向き合わないため、米国が自分たちに対して犯した由々しい戦争犯罪の加害責任についても追及することができないという、二重に無責任な姿勢の悪循環を産み出し続けてきたのです。それゆえにこそ、米国の軍事支配には奴隷的に従属する一方で、アジア諸国からは信頼されないため、いつまでたっても平和で友好的な国際関係を築けない国となっています。つまり、多くの日本民衆に現在も広く見られるこの極めて偏った「被害者偏向歴史認識」、と言うよりは正確には「歴史認識の欠如」は、このように、日米共同謀議の結果であって、日本民衆が、あるいは日本政府が独自に作り出したものではないことをはっきりとここで再確認しておく必要があります。したがって、私たちは、この二重の意味での「過去の総括」をしない限り、真の意味での「過去の克服」を成し遂げることはできません。
 安倍晋三政権がこれまで打ち出してきた様々な反民主主義的で市民抑圧的な政策の根本には、汚濁しきったこの「二重に無責任な姿勢の悪循環」が流れ続けているのです。「侵略戦争」・「慰安婦=軍性奴隷」の歴史否定、教科書改悪、特定秘密保護法による情報隠蔽、集団的自衛権行使容認の閣議決定・戦争法・日米新ガイドライン体制、強権的な沖縄米軍辺野古新基地建設、原子力空母ロナルド・レーガンを中心とする第5空母航空団(空母打撃群の主兵力)の厚木から岩国への移転、北部朝鮮共和国攻撃を視野に入れた巡航ミサイル導入の計画、がむしゃらな原発再稼働と原発輸出促進、原発避難民の切捨て、そして今度は戦前・戦中の「治安維持法」なみの悪法「共謀罪法」制定のもくろみ、等々。
 立憲主義・議会制民主主義をなし崩しにし、法律や憲法は、さまざまな嘘と欺瞞を駆使して自分の都合の良いように曲解しながら、実際には法律違反、憲法違反を堂々と犯しています。5月3日、安倍首相が憲法記念日に改憲スケジュールを公表したように、今や「壊憲」に向けてのスケジュールを具体的に推し進め始めました。これは衆参三分の二議席獲得後の加憲・改憲二段階戦略として発動されたもので、2018年の秋、総選挙と改憲国民投票を同時に行うという中央突破攻撃と受け止めるべきです。その一方で、森友学園や加計学園問題でも明らかなように、「行政の私物化」という腐敗ぶり。安倍政権は、文字通り「破壊と腐敗」の権力です。私たちは、この「破壊と腐敗」を、もうこれ以上見過ごすわけにはいきません。戦後日本国家の乗っ取りを許さず、憲法破壊と腐敗の政治=安倍政権を根っこから打倒しよう!と呼びかけるものです。
この呼びかけ文を、故・鶴見和子さんが詠った言葉に託します。
     
  生類の破滅に向う世にありて、生き抜くことぞ終(つい)の抵抗
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集会プログラム:
(会場:広島市まちづくり市民交流プラザ北棟5階研修室ABC
 8月5日(土)
 17:00 司会  大月純子(福島原発告訴団・中国四国事務所)
      開会   木原省治(原発はごめんだヒロシマ市民の会代表)
      長崎から 平野伸人(元全国被爆二世教職員の会会長)
           高校生一万人署名行動実行委員会
      岩国から 田村順玄(岩国市議)
      記念講演/武藤一羊
      発言   湯浅一郎(当実行委員会前代表)
      発言   田中利幸(当実行委員会代表)
      「市民による平和宣言2017」提案・採択
      8月6日行動提起(ピースサイクル全国ネットワーク)
 19:00 終了

関連企画86日(日)
  700~ 「市民による平和宣言2017」
      「8.6新聞意見広告」配布行動 http://9-hiroshima.org/
 
 745~ グラウンド・ゼロのつどい(原爆ドーム前)
 
 815~ 追悼のダイ・イン(原爆ドーム前)
 
 830~ 「86 広島デモ」
      (原爆ドーム前~中国電力本社))
 
 9301030中国電力本社前・脱原発座り込み行動

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フィールドワーク
85日(土)12301700 米軍岩国基地/錦帯橋バスツアー
      13001630 原民喜の「夏の花」を歩く

86日(日)12001630 ヒロシマ・スタディ・ツアー2016
              「広島湾の戦争遺跡と軍事施設を巡る」

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●日時: 8月5日(土)17時~19時
●会場:広島市まちづくり市民交流プラザ北棟5階研修室ABC
 (広島市中区袋町636)(袋町小の建物です)
http://www.cf.city.hiroshima.jp/m-plaza/kotsu.html (地図)
●参加費: 1,000円

●主催: 8・6ヒロシマ平和へのつどい2017実行委員会
●代表: 田中利幸
●事務局: 広島市中区堺町1-5-5-1001             
電話090-4740-4608 (FAX)082-297-7145             
Eメイル  kunonaruaki@hotmail.com (久野成章)      Yuki Tanaka Email: suizentanaka@gmail.com
HP: つどいHP
 http://www.d6.dion.ne.jp/~knaruaki/tudoi/tudoi.html                                      
田中利幸ブログ  http://yjtanaka.blogspot.jp/     
86ヒロシマ平和へのつどい2017呼びかけ人になってください!   
Eメイルで呼びかけ人承諾の連絡をくださるか、下記口座に賛同金を振り込みください。
  
郵便振替  01320-6-757686つどい」
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<参考資料>
86ヒロシマ平和へのつどい2016呼びかけ人
足立修一(弁護士)/
石口俊一(弁護士、広島県9条の会ネットワーク)/
上羽場隆弘(九条の会・三原)/
大月純子(福島原発告訴団・中四国 事務局)/
大野明彦(郵政ユニオン広島中央支部長)/
岡原美知子(日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク)/
岡本珠代(岡本非暴力平和研究所)/
尾崎幸雄(郵政ユニオン広島東支部長)/
上関英穂(郵政ユニオン本部執行委員)/
郭 文 鎬(在日韓国民主統一連合広島本部 代表委員)/
木原省治(原発はごめんだヒロシマ市民の会代表)/
木村浩子(YWCA We Love9)/
久野成章(環境社会主義研究会)/
佐々木 孝(第九条の会ヒロシマ)/
実国義範(平和を考える市民の会・三次)/
竹本和友(ピースサイクル広島ネットワーク事務局長)/
竹原陽子(原民喜文学研究者)/
伊達 工(ピースサイクル全国ネットワーク共同代表)/
田中繁行(ピースリンク広島・呉・岩国)/
田中利幸(元広島市立大学広島平和研究所教授)/
田村順玄(岩国市議、ピースリンク岩国世話人)/
坪山和聖(市民運動交流センター(ふくやま))/
土井桂子(日本軍『慰安婦』問題解決ひろしまネットワーク)/
長尾眞理子(一般財団法人呉YWCA前会長)/
中峠由里(YWCA We Love9)/
永冨弥古(一般財団法人呉YWCA会長)/
難波郁江(広島YWCA会員)/
西岡由紀夫(ピースリンク呉世話人)/
新田秀樹(ピースリンク広島世話人)/
日南田成志(ZENKO(平和と民主主義をめざす全国交歓会)・広島)/
平岡典道(ピースリンク広島・呉・岩国)/
平賀伸一(広高教組呉地区支部平和教育推進委員長)/
藤井純子(第九条の会ヒロシマ)/
堀伸夫(平和研問題全国研究集会inヒロシマ 事務局)/
三嶋研二(郵政ユニオン中国地方本部委員長)/
村田民雄(市民運動交流センター(ふくやま))/
溝田一成(脱原発へ!中国電力株主行動の会)/
山川 滋(教科書問題を考える市民ネットワーク・ひろしま)/
山田延廣(弁護士、秘密法廃止!広島ネットワーク共同代表)/
山田禮正(人民の力山陽協議会)/
湯浅一郎(ピースリンク呉前世話人、当実行委員会前代表)/
横原由紀夫(広島県原水禁元事務局長)/
吉井信夫(ピースサイクル広島ネットワーク代表)/
吉田正裕(東北アジア情報センター運営委員)/

全国賛同人
天野恵一(反天皇制運動連絡会)
浦田賢治 (早稲田大学名誉教授)
梶野 宏 (反安保実行委員会)
木村雅夫(福島原発事故緊急会議)
中北龍太郎(弁護士、「しないさせない!戦争協力」関西ネットワーク共同代表)
藤澤宜史(神奈川県民)
武藤一羊(ピープルズ・プラン研究所)
村上啓子(被爆者)
賛同団体
ピースリンク広島・呉・岩国/
一般財団法人広島YWCA/
一般財団法人呉YWCA/
第九条の会ヒロシマ/
ピースサイクル広島ネットワーク/
郵政産業労働者ユニオン中国地方本部/
ピースサイクル全国ネットワーク/
東北アジア情報センター/
人民の力/
環境社会主義研究会/

2017年4月25日火曜日

「平和四原則」の意義の再確認と「ティーチ・イン運動」の提案(上)


現在の劣悪な安倍極右政権に対抗し、これを倒すためには私たちは市民運動をどう展開していったらよいのだろうか、という質問を、私は先日のブログ記事「安倍晋三の言動に見るファシズムの要素 - 反知性主義の安倍政権打倒のためには何をしたらよいのか」の最後で読者の皆さんに問いました。今日は、私自身がこの課題に関して最近考えていることを以下に提案させていただきます。忌憚のないご批評をいただければ幸いです。

講和問題と「平和四原則」の誕生
今さら詳しく説明しなくても周知の事実とは思いますが、現在の日本の状況中国、韓国、ロシアとの(尖閣列島、竹島、北方領土問題、さらには「慰安婦」問題を含む戦争責任問題などに原因する)国際関係の悪化、沖縄・岩国・横須賀をはじめとする米軍基地問題、日米軍事同盟問題、米国への核抑止力依存、壊憲などの根源は、吉田茂政権下、1951年9月4〜8日に開かれた「サンフランシスコ講和会議」での「講和条約調印」と、その直後の9月8日夕方に行われた「日米安保条約調印」にあることを、まず簡潔に再確認しておきたいと思います。

講和会議の前年、1950年6月には朝鮮戦争が勃発。それまで、日本は全面講和(東西陣営を問わず、アジア太平洋戦争の全ての交戦国ならびに日本が戦渦を及ぼした国々と平和条約締結)・非武装中立の政策をとるべしと考えていた占領軍司令官マッカーサーは、態度を一変させます。これは、同年4月にトルーマン政権の国務省顧問となったジョン・ダレスが来日して、日本本土における米軍基地自由使用と米軍常時駐留の計画をマッカーサーに認めさせた結果でした。当時の首相・吉田茂は片面講和(西側陣営諸国だけとの平和条約締結)と米軍の基地自由使用を基本方針としていました。米軍基地自由使用と米軍常時駐留は、アメリカ側から一方的に強い要求があったからであると思っている人たちが多いようですが、事実はむしろ逆で、吉田は同年5月初旬に蔵相・池田勇人(随員として宮沢喜一)をワシントンに送り、日本政府側の方から米軍の基地自由使用と常時駐留を申し出る用意があると米政府に伝えているのです。これが現在の米軍基地問題の出発点です。吉田がそのような提案をした理由は、おそらくは、日本防衛については米軍に全面的に依存し、なるべく再軍備を回避して財政回復に努め、戦争で荒廃した経済の再建を最優先させるという考えからであったと思われます。

しかしながら、「再軍備」に関しては、朝鮮戦争勃発の影響で、「再軍備必要」という世論が急激に高まりました。例えば、当時の毎日新聞(1951年1月3日)の調査では賛成65.8パーセント、反対16.5パーセント:読売新聞(1951年2月8日)では賛成56.9パーセント、反対23.8パーセント:朝日新聞(1950年11月15日)では賛成53.8パーセント、反対27.6パーセントです。政治家の中にも「再軍備賛成」派が多くなり、驚くべきことに、生粋の自由平和主義者として知られている石橋湛山ですら、憲法9条を一時的に効力停止させ再軍備すべきという意見を述べています。ちなみに、天皇裕仁は、1951年2月、再び日本を訪問中のダレスに会って、片面講和条約案の支持を伝えていますが、言うまでもなく、裕仁のこの行為は明らかに憲法違反行為です。(ちなみに、1947年9月、裕仁が沖縄及びその他の琉球諸島を米国が長期に軍事占領することを望むというメッセージをマッカーサーに伝えていることはよく知られている事実ですが、これも言うまでもなく憲法違反行為です。)<なお、「再軍備賛成」意見は、朝鮮戦争が休戦状態になると、減少しました。>

そのような状況に当時の日本社会党は、一時、かなり動揺します。しかし、当時、党内で急速に優勢となった左派が、そうした動揺を克服します。左派優勢の理由は、1949年1月の衆議院選挙で、社会党は議員数を111から48にまで激減させるという惨敗をみますが、その直後に産別民同派が大量入党した結果です。1950年1月には、社会党は左右両派に一時分裂しますが、4月には再び統一し、統一大会で、前年1949年12月に中央執行委員会が決定した「全面講和・中立堅持・軍事基地反対」の平和三原則をここで再確認しました。左派の影響で、朝鮮戦争勃発後も、この平和三原則の党方針は揺らいでいません(しかし、左派の中にも荒畑寒村や小堀甚二など、「再軍備」を主張する人がいたことは確かです)。それどころか、社会党は、冷戦克服のために、インドその他のアジア諸国との連帯運動の推進を提唱しています。翌年1951年1月の党大会では、この平和三原則に「再軍備反対」を加えて、「平和四原則」とすることを決定しました。この党大会で委員長に選出された鈴木茂三郎は、就任演説の中で、「青年よ銃をとるな、婦人よ、夫や子供を戦場に送るな」と訴えています。この言葉は、今も多くの市民に強くアピールするものであることは明らかですし、安倍政権の下でますます重要性を増している言葉でもあります。

社会党左派を最も強く支えていたのは、当時の労働組合「総評」ですが、1951年3月の第2回大会で事務局長に高野稔を選出し、総評もまた「平和四原則」を採択しました。この総評を理論的に支えたのが、岩波書店を中心とする「平和問題懇談会」でした。「平和問題懇談会」のメンバーには、東京では、丸山真男、和辻哲郎、大内兵衛、安倍能成、(のちに右翼に転向した)清水幾太郎などがいましたし、関西では松田道雄、末川博、桑原武夫、恒藤恭など、錚々たる知識人が論陣をはっていました。「平和問題懇談会」のこれらのメンバーたちは、岩波書店の出版物を通して、「東西の平和的共存」は可能であり、こうした世界の平和的状況を創り出していく上でも、日本は全面講和・非武装中立政策をとることが必要である、という内容の議論を強く打ち出しました。また、彼らは、単に出版物に頼るだけではなく、総評の重要なメンバーである国鉄労働組合や日本教員組合(日教組)が日本各地で開いた勉強会に講師として出かけ、その議論の内容を説明し、「平和問題懇談会」が出した声明文や報告のコピーを組合員に配布するという運動、現代風に言えば「ティーチ・イン運動」を展開しました。

こうした「平和四原則」運動にもかかわらず、「サンフランシスコ講和会議」と「安保条約調印」では、片面講和・米軍基地常駐・再軍備推進という結果となり、一応「独立国」の地位を回復した日本ではありましたが、現実には、米国の植民地的な支配下に置かれることとなり、66年経った今もその状態が続いているわけです。

講和条約・安保条約の問題点=現在の政治問題の根源
この講和会議では、「占領軍撤退、民主化・非軍国主義化の保障」などの講和条約修正案をソ連が提出しましたが、この案を議題とすること自体が否決されました。そのため、調印式には、ソ連はチェコスロバキア、ポーランドとともに欠席。そのうえ、米軍の日本駐留継続に反対するインドほか2カ国が、最初から欠席。したがって、前述したように、日本は、外交的に最も重要であるはずの隣国の、中国、朝鮮(北朝鮮・韓国の両国)、ソ連との全面的な国交回復ができないままになってしまい、その結果として、尖閣列島、竹島、北方領土など領土問題が解決されず、今も日本の国際関係上の致命的な阻害要因となったままです。

しかも、講和条約は、すでにGHQが1946年1月29日の段階で千島と沖縄を日本の行政区域から分離し、千島がソ連のハバロフスク州に併合されていたことを追認することとになりました。沖縄と小笠原諸島はアメリカを施政権国とする国連信託統治領となって、アメリカが国連にその停止を申請するまで直接管理することになりました。したがって、沖縄は、形式的な「非軍事化・民主化」の対象とすらされず、沖縄戦で苦汁苦闘の体験を強いられ生き延びた住民は、全土の13パーセントという広大な土地を軍用地として取り上げられたまま、貧困生活を続けることを余儀なくされました。したがって、1947年に設立された沖縄人民党が、当初、日本に復帰するよりも日本からの独立を唱え、しかも日本政府に対して戦争被害賠償を請求することを政策の一つに掲げたことは、全く不思議ではありません。

もう一つの重要な問題は、戦争被害賠償問題と戦争責任問題です。日本を中国・ソ連の共産圏封じ込め政策の前線にしようと計画した米国は、日本の経済復興を優先させるために、調印諸国に日本に対する賠償請求権を放棄させる圧力をかけました。その結果、連合諸国は賠償を原則として放棄しましたが、日本に占領されて損害を受けた国々が希望する場合には、「役務」(=自国の原料を提供し日本に加工させる)という方法で賠償を支払うという形にしました。結局、この「役務」という形で賠償の支払いを受けた国は、ビルマ、インドネシア、フィリッピン、南ベトナムの4カ国だけでした。カンボジア、ラオスには賠償請求権放棄の代償として無償援助を、タイ、マレーシア、シンガポール、モンゴル、韓国、ミクロネシアの国々にも賠償に準ずる無償援助や経済協力が行われました。台湾、中国、ソ連、インドは賠償を放棄しましたが、北朝鮮とは国交が回復していないので賠償問題も実際は今も未解決の状態なのです。

日本側に侵略戦争に対する責任意識が欠落している原因の一つには、この「戦後賠償」が主として「経済援助・協力」という形をとったことがあります。しかも、この「経済援助・協力」が、事実上は、日本経済復興を目的に、日本製品の輸出や日本企業の東南アジアへの経済進出のためにおおいに利用されたため、侵略戦争に対する反省を真に促すような「賠償」とは懸け離れた形になってしまったことが挙げられます。「経済援助・協力」の中身そのものも、日本企業が自社の利益になるような事業計画(例えば水力発電所建設)を作成し、それを受入国政府を通して日本政府に資金供与させるという形のものが多く、この形がそのまま後年のODA(政府開発援助)に引き継がれていきました。さらには、「経済援助・協力」という形での「賠償」は、しばしば政治腐敗と絡んでいました。例えば、インドネシア賠償の中に船舶10隻の提供が含まれていましたが、この仕事を請け負った貿易会社・木下産商は、当時の首相・岸信介(安倍晋三の祖父)に多額の政治献金をしていた会社です。これは、ほんの一例にすぎません。

この「経済援助・協力」という形での「賠償」では、当然、日本軍の残虐行為や当時の日本政府、日本企業による人権侵害行為の直接の犠牲者とその遺族には賠償金が支払われるということは全くありませんでした。戦後長年にわたって、朝鮮人・中国人の強制連行・強制労働に対する損害賠償問題での裁判、「慰安婦=日本軍性奴隷」に対する損害賠償問題での裁判などが数多く行われてきた理由は、まさに、真の戦争被害者を無視した、この歪んだ「戦後賠償」の性格そのものにあることは明らかです。にもかかわらず、日本政府も裁判所(特に最高裁)も、「国家賠償」という形で賠償問題は解決済みであると主張し、戦争被害者の人権を徹底的に否定する態度をとってきましたし、今もその方針に全く変わりはありません。日本がアジア諸国民から信頼されず、いつまでたっても平和で友好的な国際関係を築けない国となっている重大な理由の一つが、この「戦後補償」のあり方なのです。(今年2月に公益財団法人新聞通信調査会が行った「対日メディア世論調査」の結果によると、日本を信頼できると答えた人の割合は、韓国でわずか13.8パーセント、中国では16.9パーセントでした。)

前述したように、安保条約調印は講和条約調印式が終わったその日の夕方、サンフランシスコ郊外の米軍将兵クラブで行われ、吉田茂が署名して成立。この条約は、たったの5か条からなる驚くほど短いものですが、骨子は、米軍側は日本国内に軍事基地を設置して常駐する権利を有するが、日本防衛の義務は負わないという、きわめて不平等なものでした。日本国内で大規模な内乱が起きた場合には米軍が鎮圧目的で「援助」することは可能であるし、日本が外部から武力攻撃を受けた場合にも、日本の安全に「寄与」するために米軍を「使用することができる」とはされていましたが、「義務」ではありませんでした。しかも、米軍基地の設置は日本全土で無制限、無期限で、米兵ならびにその家族には治外法権が認められる一方で、駐留費は日米両国が分担するということが、行政協定(=米軍基地・駐留条件の細目事項)で決められていました。まさに「植民地的」な条約内容でした。(ちなみに、幕末に江戸幕府は米国、英国、ロシア、オランダ、フランス各国と、治外法権を含む不平等条約を結びます。明治政府は、この不平等条約を改正するのに1872年から1911年まで、およそ40年もかかっています。こうした苦い経験にもかかわらず、戦後、米軍将兵とその家族に再び治外法権をいとも容易に与えてしまいました。歴史から学ばないということは、恐ろしいことです。)

条約の内容が不平等であっただけではなく、条約前文では日本が「自国の防衛のために漸増的に自ら責任を負う」ことが義務づけられており、有事の際には日米両軍が(米軍司令官の下に)共同行動をとるということも行政協定で決められていました。つまり、「日本の領地は勝手に米軍が使うが、日本防衛は自前でやれ」、「日本の軍事力がある程度高まってきたならば、有事の際には、アメリカ軍指揮の下でそれを使う」と主張していたわけです。考えてみると、自衛隊が歩んできた道は全くその通りになっていると言えます。つまり、安保条約は、実質的には「軍事同盟」としての性格を初めから強くおびていたものだったので、今やまさに安保条約が「日米軍事同盟」そのものに成りつつある、いや、実質的にはすでになっているのも当然と言わなければならないのです。しかし、この「軍事同盟」には、「植民地的性格」が色濃く備わっていることも、私たちは忘れてはなりません。

裕仁の戦争責任と退位問題
サンフランシスコ講和条約は1952年4月28日に発効し、この日に日本は、一応形の上では再び「独立」しました。それまでは新憲法の規定にもかかわらず、実質的には日本の主権者は日本国民ではなく、GHQでした。しかし、この日からは、日本国民が主権者となり、自らの意思で政治を動かすことができるようになったはずなのです。私は、この時期にこそ、国民は天皇裕仁の戦争責任を再び問題にすべきだったと考えています。裕仁の戦争責任を真剣に問うことは、実は、国民自身の戦争責任追及にも繋がってくることなのですが、これをやらなかったことは、その後の日本の「国としてのあり方」を大きく左右したと私は考えています。(この問題については、拙著「原爆と天皇制」の後半部分で少し触れておきましたので、ここでは詳しくは述べません。)

しかし、この時期、裕仁に責任をとることを迫った者が全くいなかったわけではありません。敗戦時に、裕仁から最も信頼され、彼の秘書と助言者の役割を果たしていた内大臣・木戸幸一がその一人です。木戸は、1945年12月6日にA級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに投獄され、講和条約発効のときも、いまだ獄中にいました。木戸は、戦犯裁判での自分の目的は、裕仁が戦犯裁判にかけられないようにすることだという強い思いがありました。その彼も、講和条約調印から1ヶ月少々たった1951年10月17日に、当時、裕仁の側近(式部官長)松平安昌を通して、以下のような内容のメッセージを裕仁に送っています。
「今度の敗戦については何としても陛下の御責任のあることなれば、……講和条約の成立したる時、皇祖皇宗に対し、又国民に対し、責任をおとりに被遊、御退位被遊が至当なりと思う。……若し如欺せざれば、皇室丈が遂に責任をおとりにならぬことになり、何か割り切れぬ空気を残し、永久の禍根となるにあらざるやを虞れる。」(強調:田中)

木戸が問題にしているのは、裕仁の「敗戦」の責任であって「戦争責任」ではありません。にもかかわらず、皇室の先祖に対してだけではなく、国民に対して苦渋を負わせた禍根を作ったことに裕仁は一定の責任があるのであり、「退位」という形でその責任をとることを強く求めたのです。ここで思い出して欲しいのは、ポツダム宣言受諾の裕仁の詔勅の内容です。この詔勅では、裕仁は、自分の「皇室の先祖」に対する責任だけを問題にしており、国民に対して責任があるなどとは全く考えていなかったことは明らかです(このことについても、拙著「原爆と天皇制」を参照して下さい)。この身勝手さに、裕仁の最も近距離にいた木戸は、はっきりと気がついていたのでしょう。せめて「退位」という形で国民にケジメをつけないと、「永久の禍根」となると木戸は言ったのです。これは、国民の気持ちというよりは、木戸自身の気持ちを正直に述べたものであると私は考えます。

裕仁が木戸のこの助言を全く受け入れなかったことは明らかですが、それでも木戸は、裕仁が退位の思いがあったという(事実とは違う)記録だけでも「宮内庁の厳秘の書類として保存」することを勧めました。それくらい木戸の「裕仁の責任」への思いは強かったということです。果たして、そんな虚偽の記録が宮内庁に残されているかどうかは明らかでありませんが、本当に残っているなら、宮内庁はとっくに裕仁賛美の目的で発表しているはずです。

裕仁の「敗戦責任」を「講和条約」との関連で問題にしたもう一人の人物は中曽根康弘です。当時、国民民主党(その後まもなく、「改進党」に名称変更)の若手の衆議院議員であった中曽根は、1952年1月31日の衆議院予算委員会で、「戦争犠牲者たちに多大の感銘を与え、天皇制の道徳的基盤を確立」するためには、「天皇の自発的退位」が望ましいと主張しました。「その機会は最近においては、第一に新憲法制定のとき、第二に平和条約批准のとき」であったが、その二回の機会とも逃してしまったので、「最後の機会」としてほぼ3ヶ月後に迫っている講和条約発効の4月28日が最も適当ではないか、と吉田首相に迫りました。戦時中は、若手将校としてバリックパパンで「慰安所」を設置したことも含め、自分の戦争責任については全く考えてもいない中曽根が、堂々と裕仁の責任について国会で問題にすること自体が無責任ですが、この質問を受けた吉田は、憤然として、天皇退位は「国の安定を害することであります。これを希望するがごとき者は非国民だ」と中曽根を罵倒しました。原子力発電導入におおいに奮闘し、原子力発電でできる熱湯を「温泉利用」するとか、日本列島は(米国のための)不沈空母などと後年に述べた中曽根は確かに「非国民」。しかし、この天皇退位問題では、むしろ治外法権などというめちゃくちゃな条件を含む売国的、植民地的な「安保条約」に署名した吉田自身こそ「非国民」と称されるべきであったでしょう。ちなみに「ナチスに習って、国民の気がつかないうちに憲法を修正してしまえばよい」という「壊憲犯罪行為」を推薦し、少しも恥ずかしいとも思わない、吉田の出来の悪い孫、麻生太郎も、間違いなく「非国民」です。

1952年5月3日、講和発効・憲法施行5周年記念式典で、裕仁は「戦争による無数の犠牲者に対しては、あらためて深甚なる哀悼と同情の意を表します。また特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒慎し、過ちをふたたびせざることを堅く心に命ずべきであると信じます」と述べました。こうして、ここでもまた、自分の責任は棚に上げたまま、「一億総懺悔」と同じように「国民の反省」を促して、「退位説に終止符」(1952年5月3日付『朝日新聞』見出し)を打ちました。

裕仁が「退位」していれば、その後の天皇制のありかた、ひいては日本そのものの歩んだ戦後社会の歴史が、わずかではあれ、今よりは少しはマシな方向に向かっていたのではないかと、私は考えています。

「逆コース化」への抵抗運動と「平和四原則」
少々話が本筋から外れました。戦後のこの時期の歴史はたいへん重要なので、いろいろな出来事をじっくり議論したいのですが、今はその時間的な余裕もないので、ごく簡単に重要な部分だけに言及することにします。

講和条約調印後、吉田内閣は保守派内部での反吉田勢力の台頭に悩まされますが、その後3年にもわたって政権を維持し続けました。吉田政権の長期維持が可能であった理由としては、社会党左派を中心とする革新派勢力が保守派全体への対抗力を強くもっていたことと(1953年4月の総選挙で社会党は138議席と大躍進)、保守勢力は、これとは対照的に、派閥間の抗争にもかかわらず、占領体制下での「民主化」を「逆コース化」するという政策面では一致していたことがあげられると思います。しかし、そんな保守内部で急速に勢力を強めてきたのが、1948年12月24日にA級戦犯不起訴となり、1952年4月28日の講和条約発効を機に公職追放を解除された岸信介です。同年11月には自由党内に、10数人と小さいながら岸派を旗揚げしています。しかし、(かなりイカガワシイ方法での)集金能力と政策立案能力を買われ、自由党内の反吉田派が離党して立ち上げた日本自由党と改進党の保守合同でも力量をみせたため、1954年11月24日に結成された日本民主党(総裁・鳩山一郎)の幹事長職につきます。

吉田政権下の1952年8月には保安庁が発足し、1954年7月には保安庁が防衛庁に、保安隊が自衛隊に衣替えしますが、「防衛力増強計画」は講和発効前から進められています。この防衛力増強と並行して、「国内治安体制の強化」と称して市民への抑圧政策が次々と導入されます。その中でも最も重要なものは、講和発効前に国会に提出され、1952年7月に公布された「破壊活動防止法(破防法)」でしょう。吉田は、「この法案に反対するものは暴力団体を教唆し、扇動するものである」と、法案に反対することすら犯罪行為であるという、めちゃくちゃな主張をしました。「暴力主義的破壊活動を行った団体」のみならず、「内乱・騒擾の扇動・教唆」を行った個人も、この法律適用の対照とされました。実際にこの法律で政府が取り締まりの対象にしようとしたのは、共産党であったことは間違いありません。

この法律は、憲法が保障する「表現の自由」や「結社の自由」を制限する危険性をおおいに孕んでおり、極めて違憲性の高いものです。戦前・戦中の悪法「治安維持法」の復活ともみなされ、そのため、全国各地で反対運動が起こり、総評などの労働団体のみならず、日本学術会議や学生、さらには、それまで政治活動にはほとんど関わってこなかった日本文芸家協会など27の文化団体、農民団体といった市民組織の幅広い参加がありました。総評を中心する労働組合は、4月初旬から6月初旬にかけて複数回の全国一斉大規模ゼネストを展開し、4月18日のストには340万人という参加者がありました。学生たちも北は北海道大学から南は鹿児島大学まで、国公私立の様々な大学で反対集会やデモを展開。しかし、メーデー事件や共産党のゲリラ活動の続発を理由に、政府と与党が法案を押し切って通してしまいました。現在の「共謀罪」をめぐる動きを彷彿とさせるような出来事でした。

ちなみに、安倍政権は、2016年3月22日の閣議で、「政府としては共産党が日本国内で暴力主義的破壊活動を行った疑いがあるものと認識して」おり、したがって、共産党は「現在においても破防法に基づく調査対象団体」であるとの閣議決定を行いました。これは、まさにナチスが反共宣伝を行い、ドイツ共産党などの抵抗勢力への弾圧をテコに権力を掌握していったことを彷彿とさせます。私は共産党員でも、どの政党のメンバーでもありませんが、この閣議決定に対し、どの野党も厳しい批判の声をあげることはなく、まともに抗議しなかったことに驚きました。「共謀罪」法が成立すれば、遅かれ早かれ、共産党は、今度は「テロ政党」と名指しされることでしょう。他の野党の政治家たちは、おそらく、自分たちの党が「テロ政党」とみなされることなど、あるはずはないと思っているに違いありません。そんな政治家たちに、私は、ニーメラー牧師の以下の言葉を忠告として送っておきます。

「ナチは最初に共産主義者をつかまえにやってきました。しかし、私は共産主義者ではなかったので、何も言いませんでした。その次にナチは、社会民主主義者をつかまえにきました。しかし私は社会民主主義者ではなかったので、なにもしませんでした。それから今度は労働組合員がやられましたが、私は労働組合員ではありませんでした。さらにはユダヤ人がやられましたが、私はユダヤ人ではないので、ほとんどなにもしませんでした。最後にナチは私をつかまえにきました。そのときには私の味方になってくれる人は誰も残っていませんでした。」(拙訳のハワード・ジン著『テロリズムと戦争』36−37頁)

破防法が成立した同じ1952年7月に、政府は、警察法を改定して警察の中央集権化をはかり、首相が治安維持上必要とみなす指示を各級公安委員会に対して発令することができるようにし、国家公安委員会が国家警察長官や警視総監を任命するにあたっても、首相が個人的な意見を述べることができるようにしました。54年6月には、さらに警察法の全面改定案を強行成立させて、自治体警察と国家警察を統合。国家公安委員会(委員長は国務大臣)が警察庁長官をはじめ警視正までの幹部警察官全員の任命権を握ることで、都道府県の公安員会の権限はいちじるしく縮小され、その存在は形式的なものにされてしまいました。つまり、一言で表現すれば、国家による警察権力の掌握と全面的支配です。

教育面でも国家統制が強化され、総評の「平和四原則」に基づいて平和教育を全面的に展開してきた日教組の教育活動を「偏向教育」と決めつけ、教育二法案を1954年1月に国会に提出。この法案の一つは「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法案」で、これによって、教員が特定政党に対する支持・反対を生徒に扇動することを処罰するものとしました。平和教育を偏向教育とみなすこと自体がまさしく「偏向」しているわけですが、現在も平和教育がまともにできない日本の状況の元凶をここに見ることができます。もう一つの法案は「教育公務員特例法の一部を改正する法律案」で、これによって公立学校教員の政治的行為を国家公務員同様に制限するというものでした。これに対し、日教組は全国で猛烈な反対運動をくりひろげ、この運動に平和問題懇談会、全国連合小学校長会、全国各地の地方教育委員会、PTAが加わりました。この反対運動を無視できなくなった与党は、社会党の抵抗を「刑罰規定削除」でなんとか押さえて、国会を通過させました。このように、現在とは全く違って、国家教育による思想統制に対する強烈な抵抗意識が、教員の間だけではなく、市民社会にも広く当時はみられました。

こうした政府の「逆コース」への抵抗運動として最も激しく展開されたのが、「平和四原則」の一つとしての運動、すなわち米軍基地反対運動でした。前述したように、安保条約ならびに行政協定によって、米軍は基地を日本のどこにでも新設できるようになったため、各地で新基地設置をめぐる紛争が続発しました。その中でも最も激しく展開された反対運動の一つは、1952年9月に、金沢市外の内灘村の海岸地域を米軍試射場として接収するという計画が発表されましたが、それに対する反対運動、いわゆる「内灘闘争」でした。この海岸砂丘地域は、小松製作所が、朝鮮戦争の特需として製造する砲弾をここで試射するために接収されることになったのです。内灘村は緊急村議会全員協議会を開き、9月21日に接収絶対反対を決議しました。ところが11月末に、村長と村議会議員の一部が、政府による補償金支払という妥協に走り、数ヶ月間の一時使用を認めてしまいました。翌年1953年5月、政府は当初の方針を変更して、内灘砂丘を無期限使用すると発表。このことが反対運動を激化させました。

それまでの基地反対運動は基本的には補償金で解決されてきましたが、この内灘闘争では、全村民が一体となった反対運動に、石川県内の社・共・総評系労組・市民と学生諸団体の支援、さらには全国各地からの支援が加わり、村民たちも現地で座込みを行うなど、基地設置そのものへの大衆的反対運動として強烈に展開されました。ところが、9月14日、内灘村は補償金増額で再び政府と妥協した後、村長が辞表を出したため、内灘闘争は一応このときに終わります。しかし、結局は米軍側が永久接収を諦めて、1957年3月末には土地が地元に返還されました。この内灘闘争は、日本における基地反対運動の出発点となっただけではなく、総評事務局長・高野稔が主唱した「地域人民闘争」(「家族ぐるみ・街ぐるみ闘争」)のモデルとなりました。この「地域人民闘争」が、1960年代後半の革新自治体を生み出す住民運動へと繋がっていきましたし、現在の沖縄の反基地運動にも繋がっていると私は考えています。

ともかくも、この内灘闘争が刺激となり、全国各地で反基地運動が展開されていきました。そうした反基地運動のもう一つ重要なケースが、「砂川闘争」です。1955年3月、米軍は爆撃機の発着のために、小牧・横田・立川・木更津・新潟の5飛行場の拡張を日本政府に要求しました。その結果、同年5月4日、砂川町長・宮崎傳左衛門に対し立川空軍基地拡張が通告されました。この拡張工事に反対して、強制測量に猛烈に抵抗した「砂川闘争」では、基地内に侵入した学生と労働者7名が行政協定実施にともなう刑事特別法によって起訴されました。しかし、東京地方裁判所での伊達秋雄裁判長による判決では、安保条約による米軍駐留そのものが違憲であり、したがって刑事特別法は無効であるため、全員無罪という判断が下されました。安保条約の違憲性を明確に指摘した、画期的な判決でした(残念ながら、最高裁への跳躍上告で、1959年12月には安保合憲、伊達判決廃棄。1962年には罰金刑が確定となりました)。
原水爆禁止運動が組織的に展開され始めたのも、実はこの時期でした。1950年3月のストックホルム・アピール(核兵器禁止・核兵器の国際管理確立・核兵器使用者は戦争犯罪人)に賛同する署名運動が、日本全国で展開されました。この運動の背景には、いまだ米軍占領下にある日本では、朝鮮戦争批判を公然と行うことができないため、反核運動を通して戦争反対というメッセージをなんとか表明したいという意識が、日本の市民の中に広く且つ強くあったと考えられます。ここにも、「平和四原則」の思想が、間接的にではあれ影響していたと私は考えています。

また、この反核運動の一環として、いまだ米軍占領下にもかかわらず、京都大学では、医・理学部学生自治会が、1951年5月の大学文化祭で「原爆展」を開催。同年7月には、同じく京都大学の全学の学生自治会である「同学会」が主催者となって、京都駅前の丸物(現在の近鉄)百貨店で「綜合原爆展」を開きました。「綜合原爆展」では、丸木位里・俊子夫妻の「原爆の図」第5部までが初公開され、10日間で3万人という入場者がありました。同年11月12日に、裕仁が近畿地方巡行の過程で京大を訪問することになったため、これに合わせて同学会は文化祭を開き、「綜合原爆展」をその中心にすると同時に、戦争責任に関する質問状を裕仁に出すことを計画。しかし、大学側によってこれが拒否されただけではなく、訪問時、裕仁に対して失礼があったという口実で、当日キャンパスにいなかった共産党系学生までを退学処分にしました。(この京大「綜合原爆展」と裕仁の京大訪問事件は、「原爆問題と天皇制」という点でひじょうに重要な出来事ですので、近い将来、詳しく私自身の分析と見解を公表するつもりです。)

周知のように、1954年3月に第五福竜丸事件が起きたことが、日本での原水爆禁止運動を一挙に高揚させますが、それには、それ以前に、京都大学のみならず、静岡大学、同志社大学、東京大学などでも「原爆展」が行われ、大学キャンパスの外でも、大阪、兵庫、滋賀、広島、群馬、鳥取などで「原爆展」資料が活用されていたという社会的背景があったことを忘れてはならないと思います。

いずれにせよ、1950年代前半、政府が急速に「逆コース」を取り始め、反民主主義的で市民抑圧的な政策を導入し始めたとき、これに抵抗した様々な市民運動を思想的に支えていたのが「平和四原則」であったというこの歴史的事実、これを私たちは明確にしておく必要があります。この「平和四原則」の歴史的背景と意義を、とくに若者たちに知ってもらい、安倍打倒のために、もう一度強力に活用する方法を考える必要がある、というのが私の考えです。

ここまで書き綴って、最初考えていた論考の長さより、はるかに長くなってしまったことに気がつきました。したがって、このあとの部分、「55年体制」から反動的岸内閣の成立、さらに安保闘争までの歴史過程と、それを踏まえた上での「ティーチ・イン運動」の具体的な提案については、改めて書くことにします。<実は、いま、ある大きな仕事を抱えているので、そちらのほうに集中しなければならないのですが、安倍政権があまりにも酷いので、どうにも我慢できなくて(苦笑)、「安倍晋三の言動に見るファシズムの要素 - 反知性主義の安倍政権打倒のためには何をしたらよいのか」と、この論考(上)を書きました。そんなわけで、この論考の(下)を書き終えるのがいつになるかは分かりません……、8・6までにはなんとかしたいとは思いますが……

最後に全くの余談ですが、数日前、メルボルン市内のコンサートホールで開かれたJoshua Bell (ジョシュア・ベル)Academy of St. Martin in the Fieldのコンサートに行ってきました。まだひじょうに若いベルですが、すばらしい演奏でした。演奏した曲の一つにモーツアルトのヴァイオリン・コンチェルト NO.4 がありましたが、心に浸み込んでくるような本当に綺麗な演奏で、感動しました。天才的ですね。 ユーチューブにこれがないかと探しましたが、残念ながらありませんでした。しかし、他の曲のものがありますので、ご紹介しておきます。お楽しみください。