2017年4月25日火曜日

「平和四原則」の意義の再確認と「ティーチ・イン運動」の提案(上)


現在の劣悪な安倍極右政権に対抗し、これを倒すためには私たちは市民運動をどう展開していったらよいのだろうか、という質問を、私は先日のブログ記事「安倍晋三の言動に見るファシズムの要素 - 反知性主義の安倍政権打倒のためには何をしたらよいのか」の最後で読者の皆さんに問いました。今日は、私自身がこの課題に関して最近考えていることを以下に提案させていただきます。忌憚のないご批評をいただければ幸いです。

講和問題と「平和四原則」の誕生
今さら詳しく説明しなくても周知の事実とは思いますが、現在の日本の状況中国、韓国、ロシアとの(尖閣列島、竹島、北方領土問題、さらには「慰安婦」問題を含む戦争責任問題などに原因する)国際関係の悪化、沖縄・岩国・横須賀をはじめとする米軍基地問題、日米軍事同盟問題、米国への核抑止力依存、壊憲などの根源は、吉田茂政権下、1951年9月4〜8日に開かれた「サンフランシスコ講和会議」での「講和条約調印」と、その直後の9月8日夕方に行われた「日米安保条約調印」にあることを、まず簡潔に再確認しておきたいと思います。

講和会議の前年、1950年6月には朝鮮戦争が勃発。それまで、日本は全面講和(東西陣営を問わず、アジア太平洋戦争の全ての交戦国ならびに日本が戦渦を及ぼした国々と平和条約締結)・非武装中立の政策をとるべしと考えていた占領軍司令官マッカーサーは、態度を一変させます。これは、同年4月にトルーマン政権の国務省顧問となったジョン・ダレスが来日して、日本本土における米軍基地自由使用と米軍常時駐留の計画をマッカーサーに認めさせた結果でした。当時の首相・吉田茂は片面講和(西側陣営諸国だけとの平和条約締結)と米軍の基地自由使用を基本方針としていました。米軍基地自由使用と米軍常時駐留は、アメリカ側から一方的に強い要求があったからであると思っている人たちが多いようですが、事実はむしろ逆で、吉田は同年5月初旬に蔵相・池田勇人(随員として宮沢喜一)をワシントンに送り、日本政府側の方から米軍の基地自由使用と常時駐留を申し出る用意があると米政府に伝えているのです。これが現在の米軍基地問題の出発点です。吉田がそのような提案をした理由は、おそらくは、日本防衛については米軍に全面的に依存し、なるべく再軍備を回避して財政回復に努め、戦争で荒廃した経済の再建を最優先させるという考えからであったと思われます。

しかしながら、「再軍備」に関しては、朝鮮戦争勃発の影響で、「再軍備必要」という世論が急激に高まりました。例えば、当時の毎日新聞(1951年1月3日)の調査では賛成65.8パーセント、反対16.5パーセント:読売新聞(1951年2月8日)では賛成56.9パーセント、反対23.8パーセント:朝日新聞(1950年11月15日)では賛成53.8パーセント、反対27.6パーセントです。政治家の中にも「再軍備賛成」派が多くなり、驚くべきことに、生粋の自由平和主義者として知られている石橋湛山ですら、憲法9条を一時的に効力停止させ再軍備すべきという意見を述べています。ちなみに、天皇裕仁は、1951年2月、再び日本を訪問中のダレスに会って、片面講和条約案の支持を伝えていますが、言うまでもなく、裕仁のこの行為は明らかに憲法違反行為です。(ちなみに、1947年9月、裕仁が沖縄及びその他の琉球諸島を米国が長期に軍事占領することを望むというメッセージをマッカーサーに伝えていることはよく知られている事実ですが、これも言うまでもなく憲法違反行為です。)<なお、「再軍備賛成」意見は、朝鮮戦争が休戦状態になると、減少しました。>

そのような状況に当時の日本社会党は、一時、かなり動揺します。しかし、当時、党内で急速に優勢となった左派が、そうした動揺を克服します。左派優勢の理由は、1949年1月の衆議院選挙で、社会党は議員数を111から48にまで激減させるという惨敗をみますが、その直後に産別民同派が大量入党した結果です。1950年1月には、社会党は左右両派に一時分裂しますが、4月には再び統一し、統一大会で、前年1949年12月に中央執行委員会が決定した「全面講和・中立堅持・軍事基地反対」の平和三原則をここで再確認しました。左派の影響で、朝鮮戦争勃発後も、この平和三原則の党方針は揺らいでいません(しかし、左派の中にも荒畑寒村や小堀甚二など、「再軍備」を主張する人がいたことは確かです)。それどころか、社会党は、冷戦克服のために、インドその他のアジア諸国との連帯運動の推進を提唱しています。翌年1951年1月の党大会では、この平和三原則に「再軍備反対」を加えて、「平和四原則」とすることを決定しました。この党大会で委員長に選出された鈴木茂三郎は、就任演説の中で、「青年よ銃をとるな、婦人よ、夫や子供を戦場に送るな」と訴えています。この言葉は、今も多くの市民に強くアピールするものであることは明らかですし、安倍政権の下でますます重要性を増している言葉でもあります。

社会党左派を最も強く支えていたのは、当時の労働組合「総評」ですが、1951年3月の第2回大会で事務局長に高野稔を選出し、総評もまた「平和四原則」を採択しました。この総評を理論的に支えたのが、岩波書店を中心とする「平和問題懇談会」でした。「平和問題懇談会」のメンバーには、東京では、丸山真男、和辻哲郎、大内兵衛、安倍能成、(のちに右翼に転向した)清水幾太郎などがいましたし、関西では松田道雄、末川博、桑原武夫、恒藤恭など、錚々たる知識人が論陣をはっていました。「平和問題懇談会」のこれらのメンバーたちは、岩波書店の出版物を通して、「東西の平和的共存」は可能であり、こうした世界の平和的状況を創り出していく上でも、日本は全面講和・非武装中立政策をとることが必要である、という内容の議論を強く打ち出しました。また、彼らは、単に出版物に頼るだけではなく、総評の重要なメンバーである国鉄労働組合や日本教員組合(日教組)が日本各地で開いた勉強会に講師として出かけ、その議論の内容を説明し、「平和問題懇談会」が出した声明文や報告のコピーを組合員に配布するという運動、現代風に言えば「ティーチ・イン運動」を展開しました。

こうした「平和四原則」運動にもかかわらず、「サンフランシスコ講和会議」と「安保条約調印」では、片面講和・米軍基地常駐・再軍備推進という結果となり、一応「独立国」の地位を回復した日本ではありましたが、現実には、米国の植民地的な支配下に置かれることとなり、66年経った今もその状態が続いているわけです。

講和条約・安保条約の問題点=現在の政治問題の根源
この講和会議では、「占領軍撤退、民主化・非軍国主義化の保障」などの講和条約修正案をソ連が提出しましたが、この案を議題とすること自体が否決されました。そのため、調印式には、ソ連はチェコスロバキア、ポーランドとともに欠席。そのうえ、米軍の日本駐留継続に反対するインドほか2カ国が、最初から欠席。したがって、前述したように、日本は、外交的に最も重要であるはずの隣国の、中国、朝鮮(北朝鮮・韓国の両国)、ソ連との全面的な国交回復ができないままになってしまい、その結果として、尖閣列島、竹島、北方領土など領土問題が解決されず、今も日本の国際関係上の致命的な阻害要因となったままです。

しかも、講和条約は、すでにGHQが1946年1月29日の段階で千島と沖縄を日本の行政区域から分離し、千島がソ連のハバロフスク州に併合されていたことを追認することとになりました。沖縄と小笠原諸島はアメリカを施政権国とする国連信託統治領となって、アメリカが国連にその停止を申請するまで直接管理することになりました。したがって、沖縄は、形式的な「非軍事化・民主化」の対象とすらされず、沖縄戦で苦汁苦闘の体験を強いられ生き延びた住民は、全土の13パーセントという広大な土地を軍用地として取り上げられたまま、貧困生活を続けることを余儀なくされました。したがって、1947年に設立された沖縄人民党が、当初、日本に復帰するよりも日本からの独立を唱え、しかも日本政府に対して戦争被害賠償を請求することを政策の一つに掲げたことは、全く不思議ではありません。

もう一つの重要な問題は、戦争被害賠償問題と戦争責任問題です。日本を中国・ソ連の共産圏封じ込め政策の前線にしようと計画した米国は、日本の経済復興を優先させるために、調印諸国に日本に対する賠償請求権を放棄させる圧力をかけました。その結果、連合諸国は賠償を原則として放棄しましたが、日本に占領されて損害を受けた国々が希望する場合には、「役務」(=自国の原料を提供し日本に加工させる)という方法で賠償を支払うという形にしました。結局、この「役務」という形で賠償の支払いを受けた国は、ビルマ、インドネシア、フィリッピン、南ベトナムの4カ国だけでした。カンボジア、ラオスには賠償請求権放棄の代償として無償援助を、タイ、マレーシア、シンガポール、モンゴル、韓国、ミクロネシアの国々にも賠償に準ずる無償援助や経済協力が行われました。台湾、中国、ソ連、インドは賠償を放棄しましたが、北朝鮮とは国交が回復していないので賠償問題も実際は今も未解決の状態なのです。

日本側に侵略戦争に対する責任意識が欠落している原因の一つには、この「戦後賠償」が主として「経済援助・協力」という形をとったことがあります。しかも、この「経済援助・協力」が、事実上は、日本経済復興を目的に、日本製品の輸出や日本企業の東南アジアへの経済進出のためにおおいに利用されたため、侵略戦争に対する反省を真に促すような「賠償」とは懸け離れた形になってしまったことが挙げられます。「経済援助・協力」の中身そのものも、日本企業が自社の利益になるような事業計画(例えば水力発電所建設)を作成し、それを受入国政府を通して日本政府に資金供与させるという形のものが多く、この形がそのまま後年のODA(政府開発援助)に引き継がれていきました。さらには、「経済援助・協力」という形での「賠償」は、しばしば政治腐敗と絡んでいました。例えば、インドネシア賠償の中に船舶10隻の提供が含まれていましたが、この仕事を請け負った貿易会社・木下産商は、当時の首相・岸信介(安倍晋三の祖父)に多額の政治献金をしていた会社です。これは、ほんの一例にすぎません。

この「経済援助・協力」という形での「賠償」では、当然、日本軍の残虐行為や当時の日本政府、日本企業による人権侵害行為の直接の犠牲者とその遺族には賠償金が支払われるということは全くありませんでした。戦後長年にわたって、朝鮮人・中国人の強制連行・強制労働に対する損害賠償問題での裁判、「慰安婦=日本軍性奴隷」に対する損害賠償問題での裁判などが数多く行われてきた理由は、まさに、真の戦争被害者を無視した、この歪んだ「戦後賠償」の性格そのものにあることは明らかです。にもかかわらず、日本政府も裁判所(特に最高裁)も、「国家賠償」という形で賠償問題は解決済みであると主張し、戦争被害者の人権を徹底的に否定する態度をとってきましたし、今もその方針に全く変わりはありません。日本がアジア諸国民から信頼されず、いつまでたっても平和で友好的な国際関係を築けない国となっている重大な理由の一つが、この「戦後補償」のあり方なのです。(今年2月に公益財団法人新聞通信調査会が行った「対日メディア世論調査」の結果によると、日本を信頼できると答えた人の割合は、韓国でわずか13.8パーセント、中国では16.9パーセントでした。)

前述したように、安保条約調印は講和条約調印式が終わったその日の夕方、サンフランシスコ郊外の米軍将兵クラブで行われ、吉田茂が署名して成立。この条約は、たったの5か条からなる驚くほど短いものですが、骨子は、米軍側は日本国内に軍事基地を設置して常駐する権利を有するが、日本防衛の義務は負わないという、きわめて不平等なものでした。日本国内で大規模な内乱が起きた場合には米軍が鎮圧目的で「援助」することは可能であるし、日本が外部から武力攻撃を受けた場合にも、日本の安全に「寄与」するために米軍を「使用することができる」とはされていましたが、「義務」ではありませんでした。しかも、米軍基地の設置は日本全土で無制限、無期限で、米兵ならびにその家族には治外法権が認められる一方で、駐留費は日米両国が分担するということが、行政協定(=米軍基地・駐留条件の細目事項)で決められていました。まさに「植民地的」な条約内容でした。(ちなみに、幕末に江戸幕府は米国、英国、ロシア、オランダ、フランス各国と、治外法権を含む不平等条約を結びます。明治政府は、この不平等条約を改正するのに1872年から1911年まで、およそ40年もかかっています。こうした苦い経験にもかかわらず、戦後、米軍将兵とその家族に再び治外法権をいとも容易に与えてしまいました。歴史から学ばないということは、恐ろしいことです。)

条約の内容が不平等であっただけではなく、条約前文では日本が「自国の防衛のために漸増的に自ら責任を負う」ことが義務づけられており、有事の際には日米両軍が(米軍司令官の下に)共同行動をとるということも行政協定で決められていました。つまり、「日本の領地は勝手に米軍が使うが、日本防衛は自前でやれ」、「日本の軍事力がある程度高まってきたならば、有事の際には、アメリカ軍指揮の下でそれを使う」と主張していたわけです。考えてみると、自衛隊が歩んできた道は全くその通りになっていると言えます。つまり、安保条約は、実質的には「軍事同盟」としての性格を初めから強くおびていたものだったので、今やまさに安保条約が「日米軍事同盟」そのものに成りつつある、いや、実質的にはすでになっているのも当然と言わなければならないのです。しかし、この「軍事同盟」には、「植民地的性格」が色濃く備わっていることも、私たちは忘れてはなりません。

裕仁の戦争責任と退位問題
サンフランシスコ講和条約は1952年4月28日に発効し、この日に日本は、一応形の上では再び「独立」しました。それまでは新憲法の規定にもかかわらず、実質的には日本の主権者は日本国民ではなく、GHQでした。しかし、この日からは、日本国民が主権者となり、自らの意思で政治を動かすことができるようになったはずなのです。私は、この時期にこそ、国民は天皇裕仁の戦争責任を再び問題にすべきだったと考えています。裕仁の戦争責任を真剣に問うことは、実は、国民自身の戦争責任追及にも繋がってくることなのですが、これをやらなかったことは、その後の日本の「国としてのあり方」を大きく左右したと私は考えています。(この問題については、拙著「原爆と天皇制」の後半部分で少し触れておきましたので、ここでは詳しくは述べません。)

しかし、この時期、裕仁に責任をとることを迫った者が全くいなかったわけではありません。敗戦時に、裕仁から最も信頼され、彼の秘書と助言者の役割を果たしていた内大臣・木戸幸一がその一人です。木戸は、1945年12月6日にA級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに投獄され、講和条約発効のときも、いまだ獄中にいました。木戸は、戦犯裁判での自分の目的は、裕仁が戦犯裁判にかけられないようにすることだという強い思いがありました。その彼も、講和条約調印から1ヶ月少々たった1951年10月17日に、当時、裕仁の側近(式部官長)松平安昌を通して、以下のような内容のメッセージを裕仁に送っています。
「今度の敗戦については何としても陛下の御責任のあることなれば、……講和条約の成立したる時、皇祖皇宗に対し、又国民に対し、責任をおとりに被遊、御退位被遊が至当なりと思う。……若し如欺せざれば、皇室丈が遂に責任をおとりにならぬことになり、何か割り切れぬ空気を残し、永久の禍根となるにあらざるやを虞れる。」(強調:田中)

木戸が問題にしているのは、裕仁の「敗戦」の責任であって「戦争責任」ではありません。にもかかわらず、皇室の先祖に対してだけではなく、国民に対して苦渋を負わせた禍根を作ったことに裕仁は一定の責任があるのであり、「退位」という形でその責任をとることを強く求めたのです。ここで思い出して欲しいのは、ポツダム宣言受諾の裕仁の詔勅の内容です。この詔勅では、裕仁は、自分の「皇室の先祖」に対する責任だけを問題にしており、国民に対して責任があるなどとは全く考えていなかったことは明らかです(このことについても、拙著「原爆と天皇制」を参照して下さい)。この身勝手さに、裕仁の最も近距離にいた木戸は、はっきりと気がついていたのでしょう。せめて「退位」という形で国民にケジメをつけないと、「永久の禍根」となると木戸は言ったのです。これは、国民の気持ちというよりは、木戸自身の気持ちを正直に述べたものであると私は考えます。

裕仁が木戸のこの助言を全く受け入れなかったことは明らかですが、それでも木戸は、裕仁が退位の思いがあったという(事実とは違う)記録だけでも「宮内庁の厳秘の書類として保存」することを勧めました。それくらい木戸の「裕仁の責任」への思いは強かったということです。果たして、そんな虚偽の記録が宮内庁に残されているかどうかは明らかでありませんが、本当に残っているなら、宮内庁はとっくに裕仁賛美の目的で発表しているはずです。

裕仁の「敗戦責任」を「講和条約」との関連で問題にしたもう一人の人物は中曽根康弘です。当時、国民民主党(その後まもなく、「改進党」に名称変更)の若手の衆議院議員であった中曽根は、1952年1月31日の衆議院予算委員会で、「戦争犠牲者たちに多大の感銘を与え、天皇制の道徳的基盤を確立」するためには、「天皇の自発的退位」が望ましいと主張しました。「その機会は最近においては、第一に新憲法制定のとき、第二に平和条約批准のとき」であったが、その二回の機会とも逃してしまったので、「最後の機会」としてほぼ3ヶ月後に迫っている講和条約発効の4月28日が最も適当ではないか、と吉田首相に迫りました。戦時中は、若手将校としてバリックパパンで「慰安所」を設置したことも含め、自分の戦争責任については全く考えてもいない中曽根が、堂々と裕仁の責任について国会で問題にすること自体が無責任ですが、この質問を受けた吉田は、憤然として、天皇退位は「国の安定を害することであります。これを希望するがごとき者は非国民だ」と中曽根を罵倒しました。原子力発電導入におおいに奮闘し、原子力発電でできる熱湯を「温泉利用」するとか、日本列島は(米国のための)不沈空母などと後年に述べた中曽根は確かに「非国民」。しかし、この天皇退位問題では、むしろ治外法権などというめちゃくちゃな条件を含む売国的、植民地的な「安保条約」に署名した吉田自身こそ「非国民」と称されるべきであったでしょう。ちなみに「ナチスに習って、国民の気がつかないうちに憲法を修正してしまえばよい」という「壊憲犯罪行為」を推薦し、少しも恥ずかしいとも思わない、吉田の出来の悪い孫、麻生太郎も、間違いなく「非国民」です。

1952年5月3日、講和発効・憲法施行5周年記念式典で、裕仁は「戦争による無数の犠牲者に対しては、あらためて深甚なる哀悼と同情の意を表します。また特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒慎し、過ちをふたたびせざることを堅く心に命ずべきであると信じます」と述べました。こうして、ここでもまた、自分の責任は棚に上げたまま、「一億総懺悔」と同じように「国民の反省」を促して、「退位説に終止符」(1952年5月3日付『朝日新聞』見出し)を打ちました。

裕仁が「退位」していれば、その後の天皇制のありかた、ひいては日本そのものの歩んだ戦後社会の歴史が、わずかではあれ、今よりは少しはマシな方向に向かっていたのではないかと、私は考えています。

「逆コース化」への抵抗運動と「平和四原則」
少々話が本筋から外れました。戦後のこの時期の歴史はたいへん重要なので、いろいろな出来事をじっくり議論したいのですが、今はその時間的な余裕もないので、ごく簡単に重要な部分だけに言及することにします。

講和条約調印後、吉田内閣は保守派内部での反吉田勢力の台頭に悩まされますが、その後3年にもわたって政権を維持し続けました。吉田政権の長期維持が可能であった理由としては、社会党左派を中心とする革新派勢力が保守派全体への対抗力を強くもっていたことと(1953年4月の総選挙で社会党は138議席と大躍進)、保守勢力は、これとは対照的に、派閥間の抗争にもかかわらず、占領体制下での「民主化」を「逆コース化」するという政策面では一致していたことがあげられると思います。しかし、そんな保守内部で急速に勢力を強めてきたのが、1948年12月24日にA級戦犯不起訴となり、1952年4月28日の講和条約発効を機に公職追放を解除された岸信介です。同年11月には自由党内に、10数人と小さいながら岸派を旗揚げしています。しかし、(かなりイカガワシイ方法での)集金能力と政策立案能力を買われ、自由党内の反吉田派が離党して立ち上げた日本自由党と改進党の保守合同でも力量をみせたため、1954年11月24日に結成された日本民主党(総裁・鳩山一郎)の幹事長職につきます。

吉田政権下の1952年8月には保安庁が発足し、1954年7月には保安庁が防衛庁に、保安隊が自衛隊に衣替えしますが、「防衛力増強計画」は講和発効前から進められています。この防衛力増強と並行して、「国内治安体制の強化」と称して市民への抑圧政策が次々と導入されます。その中でも最も重要なものは、講和発効前に国会に提出され、1952年7月に公布された「破壊活動防止法(破防法)」でしょう。吉田は、「この法案に反対するものは暴力団体を教唆し、扇動するものである」と、法案に反対することすら犯罪行為であるという、めちゃくちゃな主張をしました。「暴力主義的破壊活動を行った団体」のみならず、「内乱・騒擾の扇動・教唆」を行った個人も、この法律適用の対照とされました。実際にこの法律で政府が取り締まりの対象にしようとしたのは、共産党であったことは間違いありません。

この法律は、憲法が保障する「表現の自由」や「結社の自由」を制限する危険性をおおいに孕んでおり、極めて違憲性の高いものです。戦前・戦中の悪法「治安維持法」の復活ともみなされ、そのため、全国各地で反対運動が起こり、総評などの労働団体のみならず、日本学術会議や学生、さらには、それまで政治活動にはほとんど関わってこなかった日本文芸家協会など27の文化団体、農民団体といった市民組織の幅広い参加がありました。総評を中心する労働組合は、4月初旬から6月初旬にかけて複数回の全国一斉大規模ゼネストを展開し、4月18日のストには340万人という参加者がありました。学生たちも北は北海道大学から南は鹿児島大学まで、国公私立の様々な大学で反対集会やデモを展開。しかし、メーデー事件や共産党のゲリラ活動の続発を理由に、政府と与党が法案を押し切って通してしまいました。現在の「共謀罪」をめぐる動きを彷彿とさせるような出来事でした。

ちなみに、安倍政権は、2016年3月22日の閣議で、「政府としては共産党が日本国内で暴力主義的破壊活動を行った疑いがあるものと認識して」おり、したがって、共産党は「現在においても砂防法に基づく調査対象団体」であるとの閣議決定を行いました。これは、まさにナチスが反共宣伝を行い、ドイツ共産党などの抵抗勢力への弾圧をテコに権力を掌握していったことを彷彿とさせます。私は共産党員でも、どの政党のメンバーでもありませんが、この閣議決定に対し、どの野党も厳しい批判の声をあげることはなく、まともに抗議しなかったことに驚きました。「共謀罪」法が成立すれば、遅かれ早かれ、共産党は、今度は「テロ政党」と名指しされることでしょう。他の野党の政治家たちは、おそらく、自分たちの党が「テロ政党」とみなされることなど、あるはずはないと思っているに違いありません。そんな政治家たちに、私は、ニーメラー牧師の以下の言葉を忠告として送っておきます。

「ナチは最初に共産主義者をつかまえにやってきました。しかし、私は共産主義者ではなかったので、何も言いませんでした。その次にナチは、社会民主主義者をつかまえにきました。しかし私は社会民主主義者ではなかったので、なにもしませんでした。それから今度は労働組合員がやられましたが、私は労働組合員ではありませんでした。さらにはユダヤ人がやられましたが、私はユダヤ人ではないので、ほとんどなにもしませんでした。最後にナチは私をつかまえにきました。そのときには私の味方になってくれる人は誰も残っていませんでした。」(拙訳のハワード・ジン著『テロリズムと戦争』36−37頁)

砂防法が成立した同じ1952年7月に、政府は、警察法を改定して警察の中央集権化をはかり、首相が治安維持上必要とみなす指示を各級公安委員会に対して発令することができるようにし、国家公安委員会が国家警察長官や警視総監を任命するにあたっても、首相が個人的な意見を述べることができるようにしました。54年6月には、さらに警察法の全面改定案を強行成立させて、自治体警察と国家警察を統合。国家公安委員会(委員長は国務大臣)が警察庁長官をはじめ警視正までの幹部警察官全員の任命権を握ることで、都道府県の公安員会の権限はいちじるしく縮小され、その存在は形式的なものにされてしまいました。つまり、一言で表現すれば、国家による警察権力の掌握と全面的支配です。

教育面でも国家統制が強化され、総評の「平和四原則」に基づいて平和教育を全面的に展開してきた日教組の教育活動を「偏向教育」と決めつけ、教育二法案を1954年1月に国会に提出。この法案の一つは「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法案」で、これによって、教員が特定政党に対する支持・反対を生徒に扇動することを処罰するものとしました。平和教育を偏向教育とみなすこと自体がまさしく「偏向」しているわけですが、現在も平和教育がまともにできない日本の状況の元凶をここに見ることができます。もう一つの法案は「教育公務員特例法の一部を改正する法律案」で、これによって公立学校教員の政治的行為を国家公務員同様に制限するというものでした。これに対し、日教組は全国で猛烈な反対運動をくりひろげ、この運動に平和問題懇談会、全国連合小学校長会、全国各地の地方教育委員会、PTAが加わりました。この反対運動を無視できなくなった与党は、社会党の抵抗を「刑罰規定削除」でなんとか押さえて、国会を通過させました。このように、現在とは全く違って、国家教育による思想統制に対する強烈な抵抗意識が、教員の間だけではなく、市民社会にも広く当時はみられました。

こうした政府の「逆コース」への抵抗運動として最も激しく展開されたのが、「平和四原則」の一つとしての運動、すなわち米軍基地反対運動でした。前述したように、安保条約ならびに行政協定によって、米軍は基地を日本のどこにでも新設できるようになったため、各地で新基地設置をめぐる紛争が続発しました。その中でも最も激しく展開された反対運動の一つは、1952年9月に、金沢市外の内灘村の海岸地域を米軍試射場として接収するという計画が発表されましたが、それに対する反対運動、いわゆる「内灘闘争」でした。この海岸砂丘地域は、小松製作所が、朝鮮戦争の特需として製造する砲弾をここで試射するために接収されることになったのです。内灘村は緊急村議会全員協議会を開き、9月21日に接収絶対反対を決議しました。ところが11月末に、村長と村議会議員の一部が、政府による補償金支払という妥協に走り、数ヶ月間の一時使用を認めてしまいました。翌年1953年5月、政府は当初の方針を変更して、内灘砂丘を無期限使用すると発表。このことが反対運動を激化させました。

それまでの基地反対運動は基本的には補償金で解決されてきましたが、この内灘闘争では、全村民が一体となった反対運動に、石川県内の社・共・総評系労組・市民と学生諸団体の支援、さらには全国各地からの支援が加わり、村民たちも現地で座込みを行うなど、基地設置そのものへの大衆的反対運動として強烈に展開されました。ところが、9月14日、内灘村は補償金増額で再び政府と妥協した後、村長が辞表を出したため、内灘闘争は一応このときに終わります。しかし、結局は米軍側が永久接収を諦めて、1957年3月末には土地が地元に返還されました。この内灘闘争は、日本における基地反対運動の出発点となっただけではなく、総評事務局長・高野稔が主唱した「地域人民闘争」(「家族ぐるみ・街ぐるみ闘争」)のモデルとなりました。この「地域人民闘争」が、1960年代後半の革新自治体を生み出す住民運動へと繋がっていきましたし、現在の沖縄の反基地運動にも繋がっていると私は考えています。

ともかくも、この内灘闘争が刺激となり、全国各地で反基地運動が展開されていきました。そうした反基地運動のもう一つ重要なケースが、「砂川闘争」です。1955年3月、米軍は爆撃機の発着のために、小牧・横田・立川・木更津・新潟の5飛行場の拡張を日本政府に要求しました。その結果、同年5月4日、砂川町長・宮崎傳左衛門に対し立川空軍基地拡張が通告されました。この拡張工事に反対して、強制測量に猛烈に抵抗した「砂川闘争」では、基地内に侵入した学生と労働者7名が行政協定実施にともなう刑事特別法によって起訴されました。しかし、東京地方裁判所での伊達秋雄裁判長による判決では、安保条約による米軍駐留そのものが違憲であり、したがって刑事特別法は無効であるため、全員無罪という判断が下されました。安保条約の違憲性を明確に指摘した、画期的な判決でした(残念ながら、最高裁への跳躍上告で、1959年12月には安保合憲、伊達判決廃棄。1962年には罰金刑が確定となりました)。
 
原水爆禁止運動が組織的に展開され始めたのも、実はこの時期でした。1950年3月のストックホルム・アピール(核兵器禁止・核兵器の国際管理確立・核兵器使用者は戦争犯罪人)に賛同する署名運動が、日本全国で展開されました。この運動の背景には、いまだ米軍占領下にある日本では、朝鮮戦争批判を公然と行うことができないため、反核運動を通して戦争反対というメッセージをなんとか表明したいという意識が、日本の市民の中に広く且つ強くあったと考えられます。ここにも、「平和四原則」の思想が、間接的にではあれ影響していたと私は考えています。

また、この反核運動の一環として、いまだ米軍占領下にもかかわらず、京都大学では、医・理学部学生自治会が、1951年5月の大学文化祭で「原爆展」を開催。同年7月には、同じく京都大学の全学の学生自治会である「同学会」が主催者となって、京都駅前の丸物(現在の近鉄)百貨店で「綜合原爆展」を開きました。「綜合原爆展」では、丸木位里・俊子夫妻の「原爆の図」第5部までが初公開され、10日間で3万人という入場者がありました。同年11月12日に、裕仁が近畿地方巡行の過程で京大を訪問することになったため、これに合わせて同学会は文化祭を開き、「綜合原爆展」をその中心にすると同時に、戦争責任に関する質問状を裕仁に出すことを計画。しかし、大学側によってこれが拒否されただけではなく、訪問時、裕仁に対して失礼があったという口実で、当日キャンパスにいなかった共産党系学生までを退学処分にしました。(この京大「綜合原爆展」と裕仁の京大訪問事件は、「原爆問題と天皇制」という点でひじょうに重要な出来事ですので、近い将来、詳しく私自身の分析と見解を公表するつもりです。)

周知のように、1954年3月に第五福竜丸事件が起きたことが、日本での原水爆禁止運動を一挙に高揚させますが、それには、それ以前に、京都大学のみならず、静岡大学、同志社大学、東京大学などでも「原爆展」が行われ、大学キャンパスの外でも、大阪、兵庫、滋賀、広島、群馬、鳥取などで「原爆展」資料が活用されていたという社会的背景があったことを忘れてはならないと思います。

いずれにせよ、1950年代前半、政府が急速に「逆コース」を取り始め、反民主主義的で市民抑圧的な政策を導入し始めたとき、これに抵抗した様々な市民運動を思想的に支えていたのが「平和四原則」であったというこの歴史的事実、これを私たちは明確にしておく必要があります。この「平和四原則」の歴史的背景と意義を、とくに若者たちに知ってもらい、安倍打倒のために、もう一度強力に活用する方法を考える必要がある、というのが私の考えです。

ここまで書き綴って、最初考えていた論考の長さより、はるかに長くなってしまったことに気がつきました。したがって、このあとの部分、「55年体制」から反動的岸内閣の成立、さらに安保闘争までの歴史過程と、それを踏まえた上での「ティーチ・イン運動」の具体的な提案については、改めて書くことにします。<実は、いま、ある大きな仕事を抱えているので、そちらのほうに集中しなければならないのですが、安倍政権があまりにも酷いので、どうにも我慢できなくて(苦笑)、「安倍晋三の言動に見るファシズムの要素 - 反知性主義の安倍政権打倒のためには何をしたらよいのか」と、この論考(上)を書きました。そんなわけで、この論考の(下)を書き終えるのがいつになるかは分かりません……、8・6までにはなんとかしたいとは思いますが……

最後に全くの余談ですが、数日前、メルボルン市内のコンサートホールで開かれたJoshua Bell (ジョシュア・ベル)Academy of St. Martin in the Fieldのコンサートに行ってきました。まだひじょうに若いベルですが、すばらしい演奏でした。演奏した曲の一つにモーツアルトのヴァイオリン・コンチェルト NO.4 がありましたが、心に染み込んでくるような本当に綺麗な演奏で、感動しました。天才的ですね。 ユーチューブにこれがないかと探しましたが、残念ながらありませんでした。しかし、他の曲のものがありますので、ご紹介しておきます。お楽しみください。

2017年4月14日金曜日

「女房を『現地調達』した」と発言して恥ずかしいとも思わない新聞記者

- ジャーナリストも「反知性主義」の、劣悪な日本のこの知的状況 


去る3月24日、広島市内で「新しい韓日関係と未来ビジョン」と題するシンポジウムが開かれました。「慰安婦」問題についても議論があるとのことでしたので、日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワークからもメンバーが2名ほど参加して傍聴しました。しかし、登壇者の一人、産経新聞ソウル駐在特別記者兼論説委員である黒田勝弘の発言内容があまりにも低劣で、女性蔑視だけではなく、歴史に関する無知もはなはだしい内容であったので、私たち日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワークは、彼を登壇者として招いたシンポジウムの主催団体に下記のような公開質問状を出しました。

つい数日前のブログで日本の首相や閣僚たちの「反知性主義」について批判しましたが、世論に知的刺激を与える社会的任務を負っているはずのジャーナリストの中にも、あまりにも野卑で無知な「反知性主義者」がいることに、本当に情けなくなります。


財団法人世宗研究所様
韓国国際交流財団様
広島市立大学広島平和研究所様
駐広島大韓民国総領事館様

公 開 質 問 状

  私たち日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワークは、日本軍「慰安婦」の被害に遭われた方々の名誉と尊厳が回復されることを願い、また、被害者たちの「二度と私たちがしたような残虐な体験を誰にもさせてはならない」という願いに共感してこの広島の地で問題の解決に取組んでいる市民です。
  先日は「新しい韓日関係と未来ビジョン」をテーマとする日韓関係シンポジウムにご案内いただき有難うございました。日本軍「慰安婦」問題の早期解決を願って活動している者として、日韓間の中心的な懸案としてあげられた日本軍「慰安婦」問題と「竹島/独島」という領土問題について日本政府が駐韓大使及び在釡山総領事を召喚中というこの時期に韓国の重要な知識人の方々と日本のジャーナリストがどのようなお話をされるのか、強い関心を持って参加いたしました。
  基調演説および1部の発表に関しては幾つか新しい知見を与えられ学びを深めることができました。しかしながら、第2部のラウンドテーブルと称する討論において聞き捨てならない発言を聞き、事務局で協議の上、この文を差し上げることにいたしました。その発言とは、黒田勝弘氏が自己紹介でご自分と広島とのつながりを話される場面で「女房も『現地調達』した」と発言されたことです。
  その発言を聞いた途端、「これはひどい」と思いました。「自分の配偶者(そして女性一般)をモノ(道具)扱いにした」発言だと受け取りました。この言葉は、日本軍が侵略戦争中に戦略上の必要から、食糧及び「慰安婦(=性奴隷)」を「現地調達=略奪/強制連行」した行為を指しています。そしてその過程でしばしば住民殺害が起こり女性に対しては性暴力が振るわれました。いわゆる「慰安婦」と呼ばれた女性たちは、当時日本の植民地であった韓国や台湾からアジア太平洋地域に送りこまれた女性たちだけではありません。中国、フィリピン、インドネシア、マレーシア、東ティモール、ニューギニアや南太平洋の島々の多くの女性たちが、文字通り『現地調達』されて日本軍によって各地に設置された「慰安所」に連行され、日本軍兵士たちの性奴隷として、自由を奪われ性の相手を強要され、反抗すると軍刀等も使った暴力を受けるという、言語に絶する苦しい経験を長期間にわたって強制されたことを考えてみてください。こうした事実に思いを馳せるならば、冗談にも「妻を現地調達した」などという表現をすることが、いかに女性の人権を無視しているのか、その発言者の恥ずべき女性観を明らかにしていると思います。
  戦後日本がアジアに経済進出をしていく中で、また観光旅行の行く先々で女性を自分の性欲のはけ口として扱い、「現地妻」や「買春観光」という言葉も生まれましたが、女性・女性の性が道具として扱われていることを示すものです。特に「慰安婦」問題が討論の一つになる席での発言として、人権意識、女性の人権に対する認識のなさを披瀝したものではないでしょうか。
  国連の女性差別撤廃条約が発効し、1995年北京で開催された世界女性会議で「女性の権利は人権です」と明言され、女性の人間としての権利の確立と女性に対する暴力や差別の撤廃に努力している国際社会だからこそ、今なお日本軍「慰安婦」問題のまっとうな解決が世界から求められ、「平和の碑」の建設が続いているのです。そのことを直視できないでいる日本社会の現実の一端が今回の発言に如実に現れたのではないでしょうか。
  シンポジウムの登壇者が全て男性であることにもともと問題性を感じていましたが、「現地調達」という表現を使った黒田氏に苦言を呈する人が一人もいなかったことに私たちは強い憤りの念を禁じえません。黒田氏はどのような考えでこの言葉を使われたのでしょうか。このシンポジウムを主催された貴団体に、その後どのような対応をされたのかお伺いしたいと存じます。
  また、広島での開催ということで当然のことながら、原爆被爆の問題、特に在韓被爆者への援護の問題が話題に上がりました。もともと日本政府は被爆者援護制度に条件をつけ、国外在住者を援護策から排除しました。在韓/在外被爆者が勝ち得た援護策は被爆者自身のたゆまぬ努力があってこそ実現したにもかかわらず、ここでも黒田氏は、「日本政府からの支援があって被爆者手帳を持っている」と言い、日本政府や日本人、広島からの支援を陜川で計画中の資料館に明記して残すように要求しました。「被爆者はどこにいても被爆者」という名言は裁判を闘われた郭貴勲さんの言葉です。日本による朝鮮半島の植民地支配という歴史を捨象したままの日韓間の課題に関する討論は、砂上の楼閣を論ずるようなもので未来のビジョンを指し示そうという目的達成には程遠いと思います。講師選任に大きな問題があったのではないかと存じますが主催団体としてはどのような見解をお持ちでしょうか。

  非常に有意義な企画であるだけに多くを期待しすぎたのかもしれませんが、今後も引き続き各所で開催されることでもあり、以上申し上げた事柄に関しまして、4月中にご返答・ご見解を賜りますようにお願い申し上げます。
2017410
日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク
共同代表 足立修一 田中利幸 土井桂子
連絡先住所:730-0036 広島市中区袋町6-36
合人社ウェンテディひと・まちプラザフリースペース気付メールボックス132 FAX:082-923-6318(土井)

追記: この質問状の写しを登壇された方々の所属先にも送らせていただきます。
賛同団体
教科書問題を考える市民ネットワーク・ひろしま
第九条の会ヒロシマ
ピースリンク広島・呉・岩国

Little Hands
日本基督教団西中国教区性差別問題特別委員会



2017年4月10日月曜日

安倍晋三の言動に見るファシズムの要素


- 反知性主義の安倍政権打倒のためには何をしたらよいのか

「ファシズム(全体主義)」をどう定義するかは人によって様々ですが、例えば、ロバート・パックストン(コロンビア大学歴史学部名誉教授)は自著The Anatomy of Fascism (邦訳は2012年に『ファシズムの解剖』として出版されているようです) の中で、ファシズム思想の特徴として以下のような要素をとりあげています。現在の自分たちの(国家)共同体が衰退状況にあるという強迫観念と被害妄想にとりつかれており、そうした衰退に対する屈辱感を克服するために、愛国主義、純血主義、伝統主義を唱え民族統一を目指すこと。そのためには民主主義・自由主義を破棄し、自分たちを縛るような都合の悪い倫理観や法律による行動制約をできるだけ無くし、同時に暴力を積極的に評価し使うことで、共同体内の民族浄化をすすめる一方、共同体外への進出を拡大することを目指す、というものです。また、ファシズムの特徴の一つとして「男性支配主義」を挙げる学者もいます。

これらを安倍晋三の言動に当てはめてみると、次のようなことが明らかとなります。

日本の国力が衰えてきているので、アベノミックスという新経済政策で「強い日本を取り戻す」と主張。ほとんど誰も読んでいないであろう安倍の(おそらくゴースト・ライターによる)駄作、『新しい国へ 美しい国へ』は、まさに、日本衰退という現実への強迫観念的な反応そのもの。しかし、アベノミクスの実態は、膨大な額の公的資金(郵便貯金、簡易保険、国民年金など)をつぎ込んで、株価の維持というギャンブル的手法だけで見せかけの経済繁栄を一時的に作り出しているだけ。この「見せかけ」メッキも今や剥げかかっていることは周知の通り。そのため、今度はカジノという文字通りのギャンブル産業を取り入れて、カジノミクスで経済刺激をというお粗末な政策。アベノミクスはギャンブルミクスと名称を変えたほうがよいでしょう。アベノミクスが導入されてから、日本経済はすでに5回もマイナス成長。1千兆円という気が遠くなるような借金額をかかえた世界一の借金国では、安倍のようなギャンブル的政策でどうヤリクリしても、財政破綻が近い将来起きることは間違いなし。市民生活に容赦なく襲いかかるという点で、財政破綻は大地震(とりわけその結果としての原子力大事故)と同じくらい恐ろしいことですが、安倍政権には、そのどちらに対しても全く危機感がないのが、これまた本当に恐ろしい。

その一方で、「日本は侵略戦争をした責任がある」という中国や韓国の批判には全く根拠がないのであり、我々は不当な批判をいつも受けていると被害妄想にとりつかれている。その屈辱感を克服すために、例えば、韓国には10億円という金で「慰安婦問題」で黙らせ、「少女像」を取り除けと、倫理観のかけらもないような強要をしておきながら、全く恥ずかしいとも思わない。「慰安婦は売春婦だったのだということは、朝日新聞の誤報でも明らかなところなのだ」と世界に向けて主張する、「男性支配主義=女性蔑視主義」の自分の醜さを醜いとすら感じない、その精神的な野卑ぶり。国内では、時代錯誤もはなはだしい「教育勅語」を幼稚園児にまで暗唱させ、愛国主義を叩き込む学校をいろいろな形で応援・支援。そんな時代錯誤的教育のために、安倍から100万円を寄付してもらったと国会証言した籠池には、実質的にはなんの反論もできないでいるのが現実。同時に、妄想にすぎない「民族統一」のためには、(「日本は天皇を国家元首とする平和的・調和的国家」だとする)天皇制を徹底的に政治利用する。明仁がこれに対して「生前退位希望」という形で反発しましたが、ほとんどなんの効果もなし。もともと効果を期待するほうがおかしいのです。効果を本当に期待するならば、明仁は天皇を辞め、天皇制を廃止することを訴えるべきです。

安倍は、さらに、議会制民主主義をなし崩しにし、法律や憲法は、さまざまな嘘と欺瞞を駆使して自分の都合の良いように曲解しながら、実際には法律違反、憲法違反を堂々と犯し、これについても恥ずかしいと思うような政治倫理的な罪意識はさらさら感じない。それどころか、「暴力=軍事力の積極的利用」を、「積極的平和主義」という言葉でまで誤魔化すその厚顔無恥ぶり。さらに構造的暴力とも呼べるような政治圧力と警察力を使っての、沖縄住民の基地反対運動の押しつぶし。そんな強権的な政府に批判的な言動をとる人間は、「共同謀議罪」で逮捕してしまおうと画策中。つまり、上記のファシズムの特徴的要素がすべて安倍晋三という人間には当てはまるのです。

しかし、私は、ファシズムには、これだけではなく、「権力の私物化」と「反知性主義」という要素もあると考えています。

世界の歴史上の独裁者を見てみれば明らかなように、独裁者は必ず「国家権力を私物化」しています。安倍による「国家権力の私物化」傾向も、これまで様々な局面で明らかとなってきました。例えば、壊憲を目指す様々なこれまでの動きなども、つきつめて言えば、A級戦犯容疑者として逮捕された「お爺ちゃん」岸信介の汚名をなんとしてもぬぐいたいという、彼のきわめて個人的、独善的な思いから発生していることは間違いありません。しかし、今回の森友学園事件をきっかけに明らかとなった、安倍の妻・安倍昭恵が行く先々に、なんと選挙応援にまで、国家公務員を「秘書」として同行させていたという事実、これは明らかに、「公私混同」という言葉ですませるような単純な性質のものではなく、まさに安倍夫婦による「国家権力の私物化」です。これについても安倍自身や安倍の太鼓持ちの菅義偉が、「夫人の活動は私的行為で、政府職員が同行したのは連絡調整などのサポートが目的」であるという内容の説明で誤魔化そうとし、その政府職員が明恵の要請で財務省の役人と連絡をとっていたことが分かると、「秘書が勝手にやったこと」と、これまた明らかに虚言と思われる説明。よくまあ恥ずかしくもなく、次々とこんなめちゃくちゃな説明ができるとものだと、驚きます。こんな説明を「ああ、そうですか」と受け入れるほど、国民は馬鹿だとでも彼らは考えているのでしょうか。

ここで気がつくのは、彼らの「知性のなさ」です。ただし、これを「反知性主義」と称してよいのかどうか分かりませんが。なぜなら「反知性主義」の定義にもいろいろあって、そう簡単には使えないからです。しかし、ここで私が言いたいのは、いろいろ議論されている学問的な意味での「反知性主義」ということではなく、「客観的事実とその事実の背後にある歴史事実を理性的に分析・判断し、その判断に基づいて適確な自己の対応を考える知力」を持たない、あるいはそうした知力を嫌い、拒否する言動のこと(はやく言えば、単に「馬鹿」ということですが<笑>)。この単純な意味での「反知性主義」は、安倍内閣の複数の閣僚たちの、これまで問題になった様々な言動からも明らかであることは、あらためて述べるまでもないでしょう。その中でも極めつきは、麻生太郎、高市早苗、稲田朋美でしょう。そしてつい先日、「自己避難は自己責任、裁判でもなんでも勝手にやったらいい」と逆ギレで本音を言ってしまった復興大臣の今村雅弘も、この単純「反知性主義」者の典型です。ちなみに、今村は、2006〜2009年に、キャバクラやバーで使った多額の飲食代も「組織活動費」や「政治活動費」の名目で何回も計上していたことが暴露されたことを思い出してください。「知性」のある人間がとるべき判断でないことは明らかです。

先日、安倍はこの単純「反知性主義」者の閣僚を伴って福島に行き、「私からも率直におわびを申し上げたい。…… 全力で復興に力を入れていく」と述べたとか。ところが、今村も安倍も、「自己避難は自己責任」ということについて間違っていた、とは一言も述べてはいませんし、「自己避難している人たちの生活を財政支援していく」とも述べてはいません。それどころか、「自己避難」を単に「自主判断」と言い換え、「自主判断にも責任はある」と主張。つまり、「謝罪」と言いながら、なにも主張は変えておらず、実質的には「謝罪」などしていないのです。おそらく、今村も安倍も、お互いに、「いい加減な言葉で、ごまかしておけばいいのだ」と陰では言っているに違いありません。つまり、あいかわらずの欺瞞と嘘だらけ。首相にも閣僚にも、品格のある「知性」が全く感じられないのです。

しかし、問題は、このような反知性主義者の人間の集まりが、反知性主義の親玉である安倍の膝元にかしずき、「国家権力の私物化」を許しているだけではなく、自らも閣僚として「国家権力の私物化」のおこぼれにあずかって、自分が権力者になったかのように喜んでいるという実態。このファシズム的傾向を強くもっている反知性主義の安倍政権をいかにしたら打倒できるのか。これを、今、真剣に考え行動しないと、日本社会はますますファシズム化の度合いを強め、市民社会崩壊への墓穴に落ち込んでいく加速度を強めていくことでしょう。

状況が悪いことには、日本政府が全面的に依拠するアメリカもまた、同じような反知性主義者の大統領の下でファシズム化傾向を強めており、つい最近のシリアへのミサイル攻撃のように、複雑な国際関係問題をミサイル攻撃という愚鈍な軍事力誇示で解決しようとし、結局はますます国際関係を悪化させているという状況です。このままいくと、世界は本当に危ないです、東北アジアも含めて。

こうした状況を考えると、私たちの前途は実に多難な状態にあります。地球温暖化と環境破壊、長引く中近東とアフリカの武力紛争による大量の難民、拡散して止まないテロによる無差別殺傷など、人類史上これまで私たちが直面したことのないような困難な問題が幾つも目の前に横たわっているにもかかわらず、なんら有効な処置をうちだそうとはしない、あるいは、できない各国政府と国連組織。この状況に対し、私たち市民社会にある者としては、何をなすべきでしょうか。ご意見をうかがわせていただければありがたいです。

2017年3月30日木曜日

人道的建築ならびに日本アカデミズムの現状に関する一考


  坂茂の「人道的建築」思想
先週土曜日(3月25日)夕方、日本の建築家、坂茂(ばん しげる)による「坂茂:重要ブロジェクトと人道的仕事」と題する講演会が、シドニーのオペラ・ハウスの中にある小さな講演ホールで開かれました。実は、私の妻の趣味の一つが「現代建築」(といっても、もっぱら建築物を見るだけで、建築工学の専門的な知識は全くありません)で、日本の建築家の仕事にもたいへん興味を持っています。そのため、私も彼女に同伴していろいろな現代建築物を見に行ったり、講演を聴きに出かけたりしていますが、今回も、シドニーまで妻のお供として行ってきました。

シドニー湾を望む講演ホールは150名ほどの聴衆でいっぱいになりましたが、おそらくは参加者の多くが建築関係の仕事をしている人だったろうと想像します。坂氏は、パワーポイントを使って自分がこれまでやってきた主な仕事の内容を、90分ほどかけて紹介しましたが、建築の素人の私たちにも分かるような明快な説明でした。そのうえ、ユーモアのセンスも持ち合わせていますし、きわめて謙遜な人柄がうかがえる話ぶりで、講演の内容にひじょうに感動しました。メルボルンから一泊とまりでシドニーまで出かけた価値が十分ありました。

坂氏の仕事についてはご存知の方も多いと思いますが、なるべくコンクリートを使わず、人にも自然にも優しい建物を作ることを彼は心がけています。そのために、建築資材として「紙」を徹底的に利用するというユニークな方法を開発し、それを、とりわけ戦争や自然災害の犠牲者である避難民のための仮設住居の建築に応用するという仕事を、日本国内はもちろん、アフリカやアジアをはじめ世界各地で実践してきた人です。

講演の冒頭で彼が言った「地震は人を殺さない、建物が殺すのです」という言葉を聞いて、私は即座に、神戸の震災の直後に、小田実が「神戸震災は自然災害ではない、人災だ」と繰り返し述べていたのを思い出しました。大地震が起きたとき、大量に人の生命を奪うような建物を建て、逃げ場がないような都市構造や交通網、道路状態を造っていることが本来は問題なわけで、これを私たちは通常は忘れて暮らしています。そのことを、真剣に再考すべきなのです(そうした建造物の最たるものが原発なわけですが)。それを忘れて、津波を防ぐ防潮堤と称して、またもや、1兆円という金をかけて東北沿岸地域の440カ所に、「万里の長城」のようなコンクリートの高さ10メートル前後の防潮堤を建設中です。このコンクリートの壁が、単に景観だけの問題ではなく、自然環境を壊すことはないと考えることのほうがおかしいのです。震災から私たちはいったい何を学んだのでしょうか。

それはともかく、坂氏が開発した避難民のための紙で作った仮設住宅はとてもユニークです。仮設住宅の壁、柱や天井の桟などはすべて、防水処理をほどこした厚手のひじょうに丈夫な紙管(つまり中は空洞)で作られています。したがって、建物そのものが軽量です。釘も使わず、基本的には、紙管を紐で結びつけたり組み合わせるだけですので、安くてしかも短時間に数多く建てることができます。土台は、ビール瓶などを運ぶためのプラスチック製の長方形の箱を使います。屋根は、災害地によっては、竹林が近辺にあるところでは竹を使ったり、あるいは防水布を使ったりします。この種の仮設住宅がロワンダの紛争での難民、スリランカの津波災害の避難民など、様々な地域で実際に使われてきました。神戸地震や東北大震災でも使われています。仮設住宅とはいえ、かなり長期にわたって使用できる建物です。
  
紙製の仮設住宅のモデルの前にたつ坂茂氏

神戸大震災で使われた紙製仮設住宅
 

東北大震災では、多くの避難民が体育館などの避難所に長期間暮らすことを余儀なくされましたが、坂氏は、ここでも紙管と布を使って、プライバシーを守るために世帯ごとの空間を作り出すというアイデアを実際に具体化しました。こんな簡単なことですが、避難民の精神的ストレスがこれでかなり緩和されました。こうした仕事を、彼は、あくまでもボランティアーとして、利益抜きでやっています。


  管の太さ(つまり直径)や長さは用途によっていろいろ違いますが、長いものは20メートルもあります。この20メートルの長さのものは、例えば、2011年2月にニュージーランドで起きたカンタベリー地震で崩壊したクライストチャーチの大聖堂、その仮設の大聖堂の天井を支える96本の桟として使われています。この仮設大聖堂の屋根は半透明のポリカーボンというこれまた軽量の資材を使っています。2012年7月下旬から建築が始まって、同年のクリスマスにはできあがっているはずという短期間の工事スケジュールでした。ところが、どうも「紙の大聖堂」が気に入らない人たちがいたようで、建築をめぐっていろいろな政治的な問題が起きて工事が遅れ、結局、完成したのは2013年2月でした。こうしたくだらない政治問題を引き起こす政治屋がいるのは、どこの国でも同じです。それでも、通常の工事期間と工費から見れば、驚くべき早さと安さです。実は、この大聖堂の十字架も紙筒でできていますが、神父が「十字架が紙というのは、どうも軽く見られるようで困る」と坂氏に苦情を述べたそうです。坂氏は、この神父に、「日本では神(God)と紙(paper)は同じ発音で、紙は神に通じる」というダジャレでごまかして納得させたとか(笑)。坂氏が教会を紙で作ったのはこれが初めてではなく、神戸震災で崩壊した教会も紙で作っています。これこそカミの思召しでしょうね。
ニュージーランド、クライストチャーチ仮設大聖堂


ニュージーランド、クライストチャーチ仮設大聖堂

神戸長田区のカトリックたかとり教会

坂氏は仮設住宅だけではなく、通常の大型建築物もすばらしいデザインで設計しています。最近の一例としては、大分県立美術館です。彼は、「建築家にとってのノーベル賞」と言われている「ブリッカー賞」を、2014年に受賞しています。坂氏の建築に対する考え方をもっと知りたい方には、下記のサイトが役に立ちます。
http://www.designstoriesinc.com/special/h_tsuji-interview_shigeru_ban2/

大分県立美術館

ちなみに、日本の建築家のレベルは世界のトップ・レベルにあり、1979年に設置されたこの「ブリッカー賞」の日本人受賞者は、これまで7人で、これはアメリカの8人に次いで世界第2位です。受賞者の中には、槇文彦、安藤忠雄、伊藤豊雄といった古参の人たちだけではなく、若手と言える妹島和世、西沢立衛らが含まれます。いまだ受賞していない隈研吾なども将来の有力な受賞候補者でしょう。世界各地に彼らがデザインした美術館や博物館があります。なぜ日本の建築家のレベルがこれほど高いのか、建築史に疎い私はその背景を知りませんが、日本では、これらの優秀な建築家の下で働く能力ある若手層がかなり多いように思われます。これからも優れた建築家が日本では出てくるでしょう。

日本のアカデミック・レベルの急速な低下
こうした建築界と比較すると、日本のアカデミズムのレベルは、今、逆に急速に落ち込みつつあることは間違いありません。英国の科学誌『ネイチャー』の、つい最近3月23日の発表によると、自然科学系の68の学術誌に掲載された論文数からすると、日本人著者による論文数はこの5年間で8%減少しています。アメリカも6%の減少。これに対し、中国はなんと48%の増加です。英国も17%伸びています。大学への研究支援予算を大幅に減らしておきながら、防衛省の軍事関連研究費だけは増加させ、「研究費が欲しければ軍事研究をやれ」という、あからさまに抑圧的な、野卑とも呼べる政策をとる安部政権の下では、科学研究のレベルが急落するのも当然。この数年、ノーベル賞を受賞している日本人科学者が比較的多いのは、その多くが昔の研究蓄積成果によるもので、あとに続く優れた研究者の数がこれから激減することは間違いありません。昨年のノーベル生理学・医学賞の受賞者である大隈良典氏も、そのことを憂いて、受賞直後にはさかんに注意を促す発言をしておられました。

社会科学や人文学の分野でも急速にレベル低下していることは間違いないと思いますが、これらの分野では、自然科学系のようには容易に他国との研究レベルを比較することはできません。しかし、毎年、各大学の大学全体のアカデミック・レベルを様々な角度から見て総合判断し、その結果で世界やアジアの大学をランクづけしている英国のTimes Higher Education の3月16日発表の調査結果、「2017年アジア世界大学ランキング」によると、総合1位は2年連続でシンガポール国立大学。2位は北京大学、3位が同じく中国の精華大学、4位はシンガポールの南洋理工大学、5位は香港大学となっており、東大は昨年に続いて7位。30位以上は、14位の京都大学、26位の東北大学を含めて3校のみです。ちなみに、世界的レベルで見ると、シンガポール国立大学は24位、北京大学29位、精華大学35位に対し、東大は43位、京都大学91位です。ここでも中国の大学の躍進が飛び抜けています。

中国の大学の研究レベルが上昇していることについては、私は、この数年、身をもって感じています。2013年に、私は香港中文大学で開かれた日本研究学会に招かれて講演しましたが、そのときに中国本土の大学から参加していた幾人かの若手の中国人学者の発表を聴きました。かれらはみな、アメリカのトップの大学で、日本研究で博士号を取得していました。中国語、英語、日本語の三ヶ国語を流暢に話し、出版されている英・日・中の関連資料を読み込んでまとめた、すばらしい内容の研究発表でした。昨年12月に、再び私は香港中文大学法学部が主催した「軍性暴力と国際人道法」に関する国際シンポジウムに招かれました。そのとき、男女2人の大学院生が私の世話をしてくれましたが、彼らも英語はひじょうに流暢で、そのうえ、国際人道法に関する知識も豊富なうえに、自分の考えもしっかり持っている若者たちでした。私は、日本でこれほど優秀な大学院生はどのくらいいるだろうかと、日本の現状を考えると情けなくなりました。

このままいくと、10年もしないうちに、日本のアカデミズムのレベルは、安部政権の閣僚たちの低劣な頭脳レベルにまで堕ちることは目に見えて明らかなように思えます。すでに、広島のある研究所の所長、副所長の知的レベルなどは、首相・閣僚先生がたの低レベルに近いところにあります。

中国と比較してますます劣勢になっているのは、アカデミズムの分野だけではありません。妻と私は、シドニー滞在中に、シドニー中央駅のすぐそばに最近できた個人経営のWhite Rabbit (白い兎)という、中国現代美術作品を展示するギャラリーに行ってきました。形としてはオーストラリア人女性が個人で経営するギャラリーですが、入場料をとるわけでもなく、作品を売っているわけでもありませんので、個人で運営できるはずがありません。4階建てのかなり大きなビルで、展示スペースも広く、1階はアートショップとレストランになっています。レストランでは点心料理も出しています。おそらくは、中国政府または中国企業が資金を提供しているものと思われます。展示作品は、20歳代、30歳代といった若手の中国の芸術家が制作した作品ばかりで、その斬新さに私たちは驚かされました。現代美術分野でも、中国はいま急速に優秀な作家が生まれてきていることが分かります。下記アドレスは、そのWhite Rabbit のホーム・ページです。

それに比較して日本はどうでしょうか。芸術分野でも安部政権は投入する資金を急速に減らし、武器購入に回すという愚策をとっています。例えば、尺八の分野では、1998年から国際尺八音楽フェスティバルが4年ごとに開かれ、ニューヨークやシドニーなどでは300人ほどの尺八愛好家たちが世界各地から集い盛況でした。昨年6月にはチェコのプラハを開催地に、このフェスティバルが開かれることになっていました。私も参加を楽しみにしていた一人でした。これまでは、国際交流基金が資金支援をしてくれていたため、日本から大師範の先生たちを複数招くことができ、これらの大師範が行うワークショップに参加して少しでも腕をあげようと、多くの参加者があったわけです。ところが、昨年は開催の数ヶ月前になって、突然に国際交流基金から、資金援助打ち切りの連絡がありました。そのため、フェスティバルは事実上キャンセルとなってしまいました。これが、「日本伝統文化」を誇る安倍晋三政権がやっている現状なのです。こうした愚かな首相や大統領を持つ国民は本当に不幸です。

最後に、尺八がどれほど国際化している芸術文化であるかを知っていただくために、スペインの尺八奏者による演奏を紹介しておきます。曲の題は「ひとみ」ですが、この曲は、戦争の悲惨さを女性教師の体験から描き出した、1954年の映画「二十四の瞳」の中で使われた曲です。とても綺麗な曲です。お楽しみください。

2017年3月17日金曜日

空爆と天皇制



皇室をいまだに敬畏する東京大空襲犠牲者遺族たちの心理批判も込めて

今月10日は、周知のように、23万7千個という数にのぼる焼夷弾攻撃で引き起こされた猛烈な火の海のなかで、10万人以上の市民が焼き殺された東京大空襲の72周年目にあたる日でした。当日午前中、多くの無名犠牲者の遺骨を安置している東京都慰霊堂(墨田区)で、例年のごとく、春季慰霊大法要が営まれました。その報道記事を見て私が驚いたのは、この慰霊大法要に秋篠宮夫婦が参列していたことです。ネットで調べてみたところ、いつから皇室メンバーが東京大空襲慰霊法要に参列するようになったのか知りませんが、この数年はなぜか秋篠宮の家族が出席しているようです。

この慰霊法要に裕仁の孫夫婦を招く空襲犠牲者の遺族の(私にとっては驚くべき)心理状態を想像するとき、思い浮かぶのは、作家・堀田善衛が大空襲当日から8日後の3月18日、偶然に目にした天皇・裕仁の「被害視察」の様子です。屍体がきれいに片付けられていた「被害視察地域」を歩く裕仁とその現場の様子を、堀田は以下のように紹介しています。

九時過ぎかと思われる頃に、おどろいたことに自動車、ほとんどが外車である乗用車の列が永大橋の方向からあらわれ、なかに小豆色の自動車がまじっていた。それは焼け跡とは、まったく、なんとも言えずなじまない光景であって、現実とはとても信じ難いものであった。これ以上に不調和な景色はないと言い切ってよいほどに、生理的に不愉快なほどにも不調和な光景であった。…… 小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光りを浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて来た。大きな勲章までつけていた。…… (焼け跡を片付けていた)人々は本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざ焼いてしまいました、まことに申し訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ。…… 責任は、原因を作った方にではなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった方にあることになる!そんな法外なことがどこにある!こういう奇怪な逆転がどうしていったい起り得るのか!
(堀田善衛『方丈記私記』)

東京大空襲の責任がいったい誰にあったのかについて深く考えもせずに、祖父・裕仁の責任については全く考えてもいないであろう彼の孫を慰霊法要に招いて、ありがたがってしまう被害者遺族のこの心理。堀田と同じように、私は「こういう奇怪なことがどうしていったい起り得るのか!」と叫びたくなります。

この慰霊第法要が行われた前日の3月9日には、全国空襲被害者連絡協議会(空襲連)が、衆議院第二議員会館で集会を開きました。この協議会は、空襲で負傷しながら、長崎・広島での被爆者に対するような援護制度が全くない戦災傷害者に対し、救済法制定を求める運動を長年続けています。しかし、72年たち、生存されている被害者の数が急速に減ってきている今も、政府は全くその声に耳をかそうとはしません。戦争被害者に対するこの差別処置の原因は、いったいどこからきているのでしょうか。『原爆と天皇制』で論じましたように、これも究極的には、「原爆被害」を最初から日本が政治的に利用したこと、すなわち裕仁と日本政府の戦争責任を隠蔽するために「原爆被害」を利用したこと、その政治利用が今も続いていることに原因している、というのが私の持論です。この問題を根本的に解決するためには、原爆無差別殺戮と焼夷弾無差別殺戮を政治的に差別することなく、あらゆる無差別空爆の犯罪行為に対する批判の声を強くあげ、その責任を徹底的に追及していくことが必要だと思います。いかなる戦争被害をも、政治利用させてはなりません。

もう一つ私が怒りを覚えるのは、秋篠宮の妻の紀子が、犠牲者を供養する仏教行事である法要で読経が行われている間も、帽子をかぶったままであったことです。これは私の極めて個人的な感情かもしれませんが、慰霊をおこなうときに帽子をかぶったままであることに私はひじょうに不快感をおぼえます。(ベールで顔を覆うというのなら理解できます。ちなみに、尺八を吹く普化宗の僧である虚無僧が編笠をかぶって顔を隠すのは、ベールや帽子とは全く違った意味があり、一旦出家したからには、自分が世俗からは完全に離れた存在であることを意識し、親兄弟姉妹や知人に会っても挨拶せず、仏につかえることに専念するという目的からです。)皇后・美智子をはじめ、皇室の女性たちはみな「帽子好き」ですが、慰霊の場でも帽子をかぶっているのは、私に言わせれば「mad as a hatter」です(これ、ブラック・ユーモアのつもりです。<hatter> は<帽子製造人>のことですが、<mad as a hatter>の意味をご存じない方は、グーグルでこの意味をお調べください。実は、これは水俣病とも関連していることです。)

裕仁に、米国による原爆無差別殺戮を誘引した重大な責任があったことを、私は、前号の『広島ジャーナリスト』27号掲載の拙論で詳しく述べておきました。しかし、原爆無差別殺戮責任問題を徹底的に追及していくと、それ以前に日本全国で米軍が展開した無差別空爆、とりわけ焼夷弾を使っての無差別殺戮を問題にしなければなりません。そこで、今回は、『空爆と天皇制』というテーマで、裕仁ならびに天皇制が米軍による日本の諸市町村に対する空爆無差別殺戮に、どれほど重大な責任をもっていたのかを詳しく論じてみました(『広島ジャーナリスト』28号掲載論考)。ご笑覧いただければ光栄です。下記アドレスからダウンロードできます。

東京大空襲で無数の人たちが火焔のなかで叫び苦しみ逃げ回っていたとき、裕仁はどこで何をしていたのか、拙論を読んで考えてみていただければと願います。

あらためて言うまでもないことですが、空爆による市民無差別大量殺傷は、第2次世界大戦で終わったわけではありません。それ以後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、コソボ、アフガン、イラク戦争の他に、イスラエルによるパレスチナへの無数の空爆など、数えあげればキリがありません。そして今も毎日のようにシリアでは多くの子供を含む市民が空爆(とりわけロシア軍による空爆)の犠牲になっています。英国のNGOであるシリアでの空爆犠牲者調査団体「Airwars」の調査統計によると、2014年8月8日から2017年3月15日までにシリアとイラクへの空爆(すなわちアメリカやロシアが主張する<精密爆撃>のことですが)で殺害された市民の犠牲者数は、少なく見積もって3756人おり、そのうちの651人が子供、351人が女性とのこと。どのような統計方法をとっているのか分かりませんが、私にはこの数字は極めて過小評価のように思えます。実際には、もっともっと多いのではないかと私は考えています。統計数字の正確さはともかく、今も空爆による市民殺害は続いているというこの事実を、72年前に全国を無差別空爆で破壊され102万人という被害者を出し、その半数以上の56万人が死亡したという歴史を持つ私たちは、忘れてはならないと思います。

- 合掌

2017年1月24日火曜日

原発民衆法廷・広島法廷(2012年7月15日)判決文



前回のブログ記事「追悼:ウィーラマントリー判事」の最後の部分で、私は以下のように、ウィーラマントリー判事の反核・反原発の考えから多分に刺激をえたことを記して、ウィーラマントリー判事に感謝の意を表しました。

「原発民衆法廷の広島法廷での決定(=判決文)執筆を担当した私は、ウィーラマントリー判事の核兵器と原発に関するご意見をおおいに参考にさせていただきました。この判決文は、「自滅に向かう原発大国日本 – 原発・核兵器政策による国民殺傷行為をいかに阻止すべきか」①②(『広島ジャーナリスト』18号、19号、2014年)として発表しましたので、ご笑覧いただければ光栄です。」

ブログ読者の複数の方たちからの個人メールで、この記事をブログに載せてもらえないかというありがたいご要望がありました。数年前の拙文ではありますが、お目通しいただき、ご批評いただければたいへんありがたいので、ダウンロードできるようにいたしました。下記アドレスをクリックしていただければダウンロードできるはずです。



「自滅に向かう原発大国日本」①




「自滅に向かう原発大国日本」②



2017年1月18日水曜日

追悼:ウィーラマントリー判事


核兵器と原発の「人道に対する罪」」を訴えた続けた国際判事


2017年1月5日、元国際司法裁判所次長、国際反核法律家協会・会長のクリストファー・ウィーラマントリー判事が90歳で亡くなられました。慎んで哀悼の意を表します。

私がウィーラマントリー判事のことを初めて知ったのは、1996年7月に国際司法裁判所の「核兵器の使用と威嚇の適法性に関する」勧告的意見、すなわち「核兵器の使用と威嚇は一般的には国際法違反であるが、自衛のためには許される」という内容の意見が出されたときでした。この勧告的意見に対し、このとき判事の一人であったウィーラマントリー判事が「核兵器の使用と威嚇はいかなるときでも違法である」という長文の個別意見(=反対意見)を発表され、様々な観点からその違法性を明確に、鋭く指摘されたのを読んで、私はいたく感激しました。私は当時、メルボルン大学政治学部で教えていましたが、1972年から91年まで、ウィーラマントリー判事がメルボルンの別の大学、モナシュ大学法学部の教授であられたことを、恥ずかしながら、そのときは全く知りませんでした。後年、ウィーラマントリー判事と知り合ってから、国際司法裁判所判事を務めておられたときも、まだメルボルンにご自宅があり、しばしばメルボルンに帰っておられたことをお聞きして、そのときお会いしなかったことを残念に思った記憶があります。

私がウィーラマントリー判事と直接お会いしたのは、はっきりいつだったのか憶えていないのですが、おそらく2005年か2006年頃だったかと思います。2000年には国際司法裁判所判事の職を辞され、生まれ故郷のスリランカに戻られ、平和ウィーラマントリー国際平和教育研究センター」の設置に努力されました。私がお会いしたのは、ウィーラマントリー判事がそのセンター設置のための資金集めのために日本を訪問されていたときで、その折、広島にも訪問され、当時まだ市内にあった広島平和研究所の私の研究室にまで足を延ばしていただいたことに本当に光栄に感じました。

ちょうどそのとき、私は、広島の反核平和活動家仲間たちと「原爆投下を裁く国際民衆法廷」の2007年7月開廷を準備していた真っ最中だったので、これは好機と思い、ウィーラマントリー判事にこの民衆法廷の計画をご説明して、「民衆法廷で裁判長を務めていただけませんか」とお願いしてみました。「もちろん、喜んで」という即答をいただけるものとばかり思っていたのですが、実際の反応はきわめて否定的でした。「民衆法廷」の意義について、ウィーラマントリー判事がきわめて懐疑的であることを説明されるのを聞いて、スリランカの最高裁判所判事や国際司法裁判所判事というポストを務められた人には、「民衆法廷」が実定法に及ぼす効果が極めて弱いという思いが強かったのだろうと思います。私たちは、「民衆法廷」の意義を「市民の反核意識と戦争犯罪責任に対する問題意識の高揚」に主たる目的をおいており、実定法に及ぼす効果についてはあまり考えていませんでしたし、今も、この考えに間違いがあるとは私は思っていません。

少し話はそれますが、当時、核兵器使用と威嚇の「違法性」ということを明確に主張する国際法専門家はひじょうに少なく、とりわけ「威嚇」、すなわち「核抑止力」の違法性を主張する国際人道法専門家は稀でしたし、今も、そういう専門家はひじょうに少ないです。その稀な存在の一人が米国のフランシス・ボイル教授で、彼は2002年に The Criminality of Nuclear Deterrence(『核抑止力の犯罪性』) という著書を出しています。私は国際法の専門家ではないのですが、戦争犯罪について自分なりに長年勉強してきたため、ニュールンベルグ法を「核抑止力」に当てはめれば、これは「核兵器の使用=人道に対する罪」を犯すことを準備しているという点で、明らかに「平和に対する罪」だという主張をあちこちでしてきましたが、まさに同じことを、もっと詳細に国際法の観点から論述したのがこのボイル教授でした。このボイル教授やウィーラマントリー判事の論述を翻訳して、積極的に日本で紹介される努力をされてきたのが浦田賢治先生で、2012年には、浦田先生ご自身の論考やボイル教授、ウィーラマントリー判事の論考を集めた『核と原発の犯罪性国際法・憲法・刑事法を読み解く』(日本評論社)というすばらしい編著を出されています。実は、ウィーラマントリー判事に「原爆民衆法廷」の裁判長になっていただくことができなかったので、そのあと、ボイル教授に打診しましたが、残念ながら、その時点ですでに2007年のスケジュールが決まっていて、広島には行けないないというお返事でした。

話をウィーラマントリー判事に戻します。2回目にお会いしたのは、2010年5月のニューヨークの国連ビルで開かれたNPT再検討会議のためのNPO会議ででした。その会議の企画の一つとして、ウィーラマントリー判事を含む数人の法律家が、核兵器の使用と威嚇の違法性に関する考えをどのように市民に広げていくか、そのアイデアを述べられるワークショップが持たれました。私もそのワークショップを傍聴し、質問時間に、「核兵器だけではなく、劣化ウラ弾や通常爆弾による市民無差別攻撃も<人道に対する罪>であるので、核兵器であろうと通常爆弾であろうと<無差別爆撃>自体を違法化することが必要なのではないか。それをとりあえず最も早く達成するためには、ジュネーブ協定追議定書を修正して、「追加議定書」の第4部に、「いかなる状況においても、核兵器・ウラン兵器などの放射能兵器、化学・生物兵器、焼夷弾など、市民を危険にさらし環境を破壊する可能性のある全ての大量破壊兵器・無差別殺傷兵器の使用を禁止する」という内容の一条項を追加することではないのだろうか。「いかなる状況においても」という表現を入れる理由は、現行の追加議定書では、軍事目標攻撃の際に、故意でなければ(つまり非意図的であれば)市民に死傷者を出すことが許されているので、これも許さないというように修正すべきだからだと考えるからです。この意見に関して、ウィーラマントリー判事はどのように考えられますか、という内容の質問をさせていただいた。(ちなみに、この私見は、2010年NPT討会議に向けて - 廃絶をめざすヒロシマの会HANWAからの提言 - http://www.e-hanwa.org/announce/2010/81 として発表されました。)

しかし、そのほかにもいろいろと質問が出ていたため、ウィーラマントリー判事が私の質問にお答えになられる前に、私は人に会う約束時間が迫っていたので、会議場を出てしまい、そのお答えを聞き損ねてしまいました。後日メールでお訊ねしようかと思いつつも、質問をしておきながら会議場を途中で離れたことがたいへん失礼だと思い、結局、聞きそこねてしまいました。

その翌年2011年の東日本大震災の3日後の3月14日に、ウィーラマントリー判事からメールをいただきました。その内容は「日本においての原子炉の惨劇 - 世界の環境 担当大臣に向けた公開書簡 -」というもので、反核反原発運動に関わっている世界中の多くの人たちに送られたものでした。 書簡の内容は、原子炉運転と拡散が「将来の世代に対する犯罪」であり、「人道法、国際法、環境法、ならびに国際的な持続可能な発展に関する法のすべての原則に反する」というもので、世界各国の環境担当大臣に即刻原子炉を停止し、代替エネルギー・システムの開発に努力すべきであると呼びかけられたもので、いつものウィーラマントリー判事の明快で感動的な文章で、私も大いに刺激を受けました。ちなみに、ボイル教授も、福島原発事故の直後に、原発産業そのものが「人道に対する罪」であるという、ウィーラマントリー判事と同じような主張を展開されました。このお二人の論考は、すでに紹介した浦田先生の編著の第1部「ヒロシマからフクシマへ」の第1、2章として含まれていますので、ぜひお読みください。
同じ2011年6月に、オランダのハーグにある出版社から出版された、2人の国際人道法学者の私の友人と私の3人での共同編著Beyond Victor's Justice? The Tokyo War Crimes Trial Revisited の出版記念会がハーグで開かれました(日本語版『再論東京裁判何を裁き何を裁かなかったのか』大月書店2013年)。おそらく、ウィーラマントリー判事に出席していただくのは無理だろうとは思いつつ、ただ本の出版をお知らせしたくて、一応、出版記念会への招待状を数ヶ月前に出しておきました。ところがウィーラマントリー判事が出版記念会の会場に実際に顔を出されたのには、私もびっくりしました。奇しくも、ちょうどその出版記念会の数日前にポーランドで国際反核法律家協会の会議が開かれ、会長をされていたウィーラマントリー判事がその会議に出席され、その帰国途中にハーグまで来ていただいたのです。もちろん、ハーグにはウィーラマントリー判事の知人がたくさんおられるので、出版記念会の出席だけが目的で来られたわけではないでしょうが、それでもたいへん光栄に感じました。そのときは、ウィーラマントリー判事は「福島原発事故」の問題ばかりを話題にされ、差し上げた本の内容については全く触れられませんでした(笑)。反原発運動でしっかりやりなさいと叱咤激励をさかんに受けました。とてもお元気そうで、これがお目にかかる最後になるとは、そのときは予想もしていませんでした。

前田朗さんの呼びかけで、2102年2月から「原発民衆法廷」を東京、大阪、郡山、福島、四日市、熊本、札幌などで開き、私も前田さん、鵜飼哲さん、岡野八代さんと一緒に判事団の一員を務めました。同年7月には広島でも法廷を開廷しましたが、そのとき、判事のみなさんと相談して、ウィーラマントリー判事を広島に証言者としてご招待し、講演していただくという案を私が出しました。みなさん賛成されたので、ウィーラマントリー判事に打診のメールを出したのですが、「原爆投下を裁く国際民衆法廷」のときと同じように、良いお応えはいただけませんでした。出席できない理由については、スケジュールが合わないというような簡単な説明だけで、はっきり書かれてはいませんでした。

したがって、ハーグ以来お会いできなかったのは残念ですが、原発民衆法廷の広島法廷での決定(=判決文)執筆を担当した私は、ウィーラマントリー判事の核兵器と原発に関するご意見をおおいに参考にさせていただきました。この判決文は、「自滅に向かう原発大国日本原発・核兵器政策による国民殺傷行為をいかに阻止すべきか」①②(『広島ジャーナリスト』18号、19号、2014年)として発表しましたので、ご笑覧いただければ光栄です。

そのようなわけで、ウィーラマントリー判事との個人的な交流はそれほど深くはありませんでしたが、私は彼の著書や論考からひじょうに多くのことを学ばせていただきましたことを、再度ここに記して、心から感謝を申し上げますと同時に、ご冥福をお祈りいたします。

2017年1月9日月曜日

A Critique of An Open Letter to Prime Minister Shinzo Abe



- Questions addressing the US-Japan conspiracy are essential –

The Open Letter failed to address the issue of the US-Japan Military Alliance
On December 25, 2016, three days before Prime Minster Abe’s visit to Pearl Harbor, a group of 53 scholars and experts including film director Oliver Stone from the US, Japan and a few other nations released “An Open Letter to Prime Minister Shinzo Abe On the Occasion of Your Visit to Pearl Harbor.”  Below is the full text of the letter.

An Open Letter to Prime Minister Shinzo Abe On the Occasion of Your Visit to Pearl Harbor 

December 25, 2016 

Dear Mr. Abe, 
You recently announced plans to visit Pearl Harbor in Hawai’i at the end of December 2016 to “mourn the victims” of the Japanese Navy’s attack on the U.S. naval base on December 8, 1941 (Tokyo Time). 

In fact, Pearl Harbor was not the only place Japan attacked that day. The Japanese Army had attacked the northeastern shore of the Malay Peninsula one hour earlier and would go on to attack several other British and U.S. colonies and bases in the Asia-Pacific region later that day. Japan launched these attacks in order to secure the oil and other resources of Southeast Asia essential to extend its war of aggression against China. 

Since this will be your first official visit to the place where Japan’s war against the United States began, we would like to raise the following questions concerning your previous statements about the war. 

1) You were Deputy Executive Director of the “Diet Members’ League for the 50th Anniversary of the End of War,” which was established at the end of 1994 in order to counter parliamentary efforts to pass a resolution to critically reflect upon Japan’s aggressive war. Its Founding Statement asserts that Japan’s more than two million war-dead gave their lives for “Japan’s self-existence and self-defense, and peace of Asia.” The League’s Campaign Policy statement of April 13, 1995 rejected offering any apology or issuing the no-war pledge included in the parliamentary resolution to mark the 50th anniversary of the end of war. The League’s public statement of June 8, 1995 declared that the majority parties’ resolution draft was unacceptable because it admitted Japan’s “behaviors of aggression” and “colonial rule.” Mr. Abe, do you still hold such views about the war? 

2) In the Diet questioning period of April 23, 2013, you as Prime Minister stated that "the definition of what constitutes 'aggression' has yet to be established in academia or in the international community." Does that mean that you do not recognize Japan’s war against the Allied and Asia-Pacific nations and the preceding war against China as wars of aggression? 

3) You state that you are going to visit Pearl Harbor to “mourn” the 2,400 Americans who perished in the attack. If that is the case, will you also be visiting China, Korea, other Asia-Pacific nations, or the other Allied nations for the purpose of “mourning” war victims in those countries who number in the tens of millions? 

As Prime Minister, you have pressed for Constitutional revision including reinterpretation and revision of Article 9 to allow Japanese Self-Defense Forces to fight anywhere in the world. We ask that you reflect on the signal this sends to nations that suffered at Japan’s hands in the Asia-Pacific War. 

These questions per se seemed to be quite reasonable as they were based on historical facts as well as on Abe’s past public statements and political performance. The ceremony at Pearl Harbor to be conducted by Abe and Obama was scheduled for December 28, 2016. Considering that the ceremony’s main purpose was to re-affirm and reinforce the US-Japan military alliance, it seemed to me that these questions were clearly inappropriate. They completely failed to address the issue at hand. In fact I was one of those who were invited to join the signatory group for this open letter. Having read the draft, I proposed the addition of a few more questions, pointing out that we should draw attention to the fundamental issue of the US-Japan military alliance. This is the parties’ mutual acceptance of their denial of their respective war responsibilities – Japan’s responsibility for numerous war atrocities and US responsibility for the indiscriminate mass killing with atomic bombs. As my proposal was rejected, I declined to join this group action.

The Open Letter failed to assess the political exploitation of the war victims of the Pearl Harbor Attack
The following is my further explanation as to why I found this open letter utterly inappropriate for this occasion.

The questions set out in this letter were simply directed to Abe in person, focusing upon his personal views on various war-related issues. The ceremony, however, was going to be conducted by Abe and Obama together. The aim was to reconfirm and further consolidate the US-Japan military alliance. The intention of the ceremony was apparently to console the spirits of the victims of the Pearl Harbor attack that the Japanese Imperial Forces conducted 75 years ago. I thought, naturally, that we needed to confirm what its fundamental purpose would be. A related and important question would be how we should assess the fact that this ceremony of remembrance was going to be conducted by the Japanese Prime Minister, who utterly denies Japan’s responsibility for the war of aggression, together with the US President, who does not admit his country’s crime and its responsibility for the atomic bombing. The questions in the open letter should have been directed to the fundamental nature of the US-Japan military alliance in relation to these two nations’ respective official memories of the war. But the actual questions in the open letter concerned only Abe’s personal views and ideas on Japanese war issues – questions that would deflect the real issue away from our attention, trivializing the relevant issues as the personal problems of a reckless politician.       

It should be remembered that Abe was not the first post-war Japanese prime minister to visit Pearl Harbor and pay his respects to the American victims. Three of his predecessors also made the visit, but their visits were always in connection with the US-Japan Security Treaty. In 1951 Prime Minister Yoshida Shigeru went to Pearl Harbor on the way back from San Francisco after he signed the US-Japan Security Treaty by which the US gained entitlement to maintain indefinitely its military bases on Japanese soil. Five hours after signing the Peace Treaty with former enemy nations, Yoshida was taken to the Six US Army Headquarters at Presidio just north of San Francisco in order to authorize a new agreement with the US government on the continuing US military presence in Japan and allowing the US to continue to directly control Okinawa as before. The aim of Prime Minister Hatoyama Ichiro’s visit in 1956 was to demonstrate Japan’s continuing commitment to the US-Japan Security Treaty and the country’s loyalty to the US. This was despite his visit to Moscow ten days earlier to conclude the Japan-Soviet Joint Declaration on the restoration of diplomatic relations with the Soviet Union. In 1957 Prime Minister Kishi Nobusuke, Abe’s grandfather, visited Pearl Harbor on the way back from Washington D.C. after a meeting with President Eisenhower where the possibility of amending the US-Security Treaty was discussed.
Yoshida Shigeru signing the US-Japan Security Treaty
 
In this way, visits by Japanese Prime Minsters to Pearl Harbor always took place as highly political gestures designed to confirm and reconfirm the US-Japan alliance. The succession of visits by Japanese prime ministers to Pearl Harbor is a typical example of the political exploitation of war victims. Similarly the aim of Abe’s visit to Pearl Harbor was to boost his popularity both in Japan and the US by conducting a ceremony for “peace and reconciliation” and also to reinforce the military alliance with the US. His purpose was to strengthen further his campaign to abolish Article 9 of Japan’s peaceful Constitution and to allow Japanese military forces (still called “self-defense forces”) to conduct military operations side by side with US forces anywhere in the world. Needless to say, the Obama administration supported Abe’s political intentions by accepting his proposal to visit Pearl Harbor.

Thus mere criticism of Abe’s flawed view of the history of the Asia-Pacific War cannot reveal the significance of a political ceremony in which Japan and the US conspired together to exploit the war victims. One of the important questions to be asked should therefore be why none of the successive post-war Japanese prime ministers - including Yoshida, Ishibashi, Kishi and Abe - have ever visited Asian and Pacific nations to mourn victims of the war that Japan conducted and to offer sincere apologies to these nations. Such careful and critical thought and inquiry are totally lacking in the questions set out in the open letter.           

A ceremony in which the US and Japan mutually accept denial of their respective war responsibilities
The memorial ceremony at Pearl Harbor in December 2016 was conducted as a “return salute” in response to Obama’s visit to Hiroshima Peace Park in May of the same year. In his speech in Hiroshima, Obama discussed the atomic bombing with no reference whatsoever to the crime and responsibility of the US. Instead he described the atomic bombing as if it were a natural calamity that had no identified human agency, explaining it thus: “On a bright cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed.” Furthermore, by declaring that “mankind possessed the means to destroy itself,” Obama implied that all mankind was guilty. In my recent essay, ‘US President Obama’s Visit to Hiroshima: a Critical Commentary through the Eyes of Hannah Arendt’, I explained the hidden significance of this ostensibly solemn memorial ceremony conducted near ground zero in Hiroshima in the following way: 
  
Japanese political and military leaders also utilized the deceptive concept of collective guilt immediately after Hirohito officially surrendered to the Allied nations on August 15, 1945. The national doctrine of “National Acknowledgement of Japanese War Guilt” whitewashed the guilt and personal responsibility of many of Japan’s wartime leaders, including Hirohito, the Grand Marshall of the Japanese Imperial Forces – guilt and responsibility for killing and injuring millions of Asians as well as more than three million Japanese. Yet the current Prime Minister of Japan, Abe Shinzo, does not even use this misleading doctrine of collective guilt in order to evade Japan’s national war responsibility. He shamelessly denies the historical facts of numerous war crimes and atrocities that the Japanese committed against Asians, for example, the Nanjing Massacre and the phenomenon of military sex slaves.

Because the US president evaded his national responsibility in Hiroshima for the atomic bombing by laying guilt and responsibility at the feet of all mankind, the US is tacitly resonant with Abe’s denial of Japan’s war responsibility. Obama and Abe stood together in Hiroshima Peace Park. But in reality this scene was a celebration of their mutual acceptance of denial of their respective war responsibilities. Of course this ceremony had also served as another hidden mutual verification - confirmation of the rightness of the US nuclear deterrent strategy and the US-Japan military alliance. *

It is politically deceptive to mourn the war victims without admitting the crimes and responsibility of one’s own nation and to give a false impression of a deep desire for peace for one’s former enemy nation as well as one’s own. This is nothing but an effective method of concealing those very crimes and that responsibility. True reconciliation and peace can only be achieved when victims accept sincere apologies offered by perpetrators for the crimes as well as acknowledgement of responsibility for them. Yet both Obama and Abe, as national leaders, failed to fulfill this duty.

We therefore need to carefully reconsider the fact that one of the aims of both Obama’s visit to Hiroshima - and Abe’s visit to Pearl Harbor – was to be a celebration of their mutual acceptance of denial of their respective war responsibilities, and that this mutual acceptance was the crucial foundation of the US-Japan military alliance.   


The American justification of the atomic bombing and Japan’s acceptance of this justification is the foundation of the US-Japan military alliance
In order to understand this mutual acceptance of denial of their respective war responsibilities, we need to comprehend how the US decided to use the atomic bomb against Japan and how Japan reacted to this serious crime against humanity.

As has been well substantiated by a number of historians, the real aim of the US in employing nuclear bombs against Japan was to demonstrate to the Soviet Union the mass-destructive power of the new weapon. The purpose of this was to discourage the Russians from embarking on war against Japan. As many military leaders in the US forces thought at the time, strategically, to end the Asia-Pacific War, the use of a nuclear weapon was not remotely necessary. Rather than military or other reasons, the real motivation was political. In fact the US Government, led by Harry Truman, plotted to make sure that Japan would not surrender until the new weapon of mass destruction was ready to be used. In order to pursue this aim, Truman made sure that there would be no reference in the Potsdam Declaration to the Allied nations’ plan concerning the future status of Japan’s emperor system – the most crucial issue for the Japanese government.     

On the other hand, Emperor Hirohito and his military and political leaders needlessly wasted time by delaying their surrender to the Allied nations. They wanted to be sure that Japan would receive a guarantee from the Allied powers that its emperor system would be maintained after Japan’s surrender. For this reason, Japan continued to conduct a series of unwinnable battles in the Pacific, most notably in the Philippines and in the Okinawa Prefecture. They forced tens of thousands of Japanese soldiers and civilians to sacrifice their lives and also killed many local people. To some extent, these useless and wasteful shenanigans on the part of the Japanese suited the US plan. What really led Japan to make the decision to propose the surrender, which boasted a sole condition – permission to maintain the emperor system – was not the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki. It was the Soviet Union’s entry into the war against Japan, which happened a few hours before the bombing of Nagasaki on August 9, 1945.

On August 12, the Japanese government received a response which hinted at an acceptance of Japan’s proposal. Yet, it took until August 14 - two more days - for Hirohito and his cronies to finally accept the Potsdam Declaration. In the meantime, almost every day until August 14 after the bombing of Hiroshima and Nagasaki, the US forces continued fire-bombing many other Japanese cities. The target of one of the last conventional bombings on August 14 was Osaka, in which 700 one-ton bombs were dropped from 150 B-29 bomber planes. The result was the death of more than 800 civilians, just a matter of hours before the official end of the war.

It is clear therefore that, in the real historical sense, the US and Japan share combined responsibility for the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki – the US for plotting to ensure that Japan did not surrender until the bomb was ready; and Japan for unwisely inducing the atomic bombing by delaying the capitulation. Yet the US created a myth that the atomic bombing was necessary in order to end the long-lasting bloody war in the Asia-Pacific. Its aim was to cover up its grave war crime of the unnecessary killing of over 210,000 people, mostly civilians, including 40,000 Koreans. On the other hand, Hirohito stated in his Imperial Rescript on the Termination of the War that his government had decided to surrender because of the loss of life brought by the atomic bombs. Hirohito deceptively singled out the atomic bombings, and not the Soviet Union’s entry to the war against Japan, as the decisive factor in the decision to surrender.

Hirohito was thus able to completely ignore the war crimes committed by the Japanese military across Asia and the Pacific, as well as the anti-Japanese resistance that was taking place throughout Asia. In addition, he exploited the A-bomb’s damage to indirectly justify the war as a “war to liberate Asia.” In this way, the atomic bombings became a means to conceal not only the responsibility for the war of Hirohito himself and other wartime leaders, but also the legal and moral responsibilities of the Japanese people for a war conducted in the name of the Japanese empire. This war took tens of millions of lives throughout the Asia-Pacific. Just as President Truman fabricated a myth to cover up the US government’s responsibility for its serious war crimes, so too did the Japanese government use the same A-Bomb attacks to conceal its own war responsibilities.  

In this way, both the US and Japan exploited the tremendous destructive and lethal power of the atom bomb for their respective political justifications for ending the war. Moreover, they tacitly accepted each other’s justifications. In other words, the post war era for Japan and the US commenced on a base of US and Japanese mutual acceptance of denial of their respective war responsibilities.
       
The US-Japan Security Treaty was also based firmly upon this mutual acceptance of these denials. Japan for its part, with this treaty, officially accepted the American myth that justified indiscriminate mass killing with nuclear weapons. Since then Japan has strongly supported and still supports US nuclear strategies, to the extent that the Japanese government now repeatedly requests the US government to maintain its strategy of nuclear deterrence. In parallel with this policy, Japan built its own nuclear energy facilities throughout the nation and still shows no sign of terminating its commitment to the use of nuclear power - despite the horrendous accident five years ago at Fukushima No.1 Nuclear Power Station.

On the other hand, immediately after the war, the US decided to use Hirohito’s status as emperor to achieve smooth control of the Japanese nation under US occupation forces. Accordingly, the US decided not to question Hirohito’s crime of and responsibility for the war of aggression. In corroboration with the Japanese government, the US created a myth that, despite his pacifist beliefs, Hirohito’s prestige had been politically exploited by a small group of warmongers during the war. Such treatment of Hirohito by the US was, of course, closely related to the fact that, as a token gesture, only a small number of Japanese military and political leaders were tried at the Tokyo War Crimes Tribunal. Even after Japan’s independence was restored in 1951, the Japanese emperor system was continuously exploited under the US-Japan Security Treaty, and is still manipulated for the benefit of both Japanese and US political and military co-operation.

Because of this US-Japan conspiracy, the majority of Japanese not only failed to form a clear idea of their nation’s war responsibility but also came to see themselves as the victims of war rather than as perpetrators. As a nation Japan still does not openly recognize the criminality of the many brutal acts it committed against other Asian peoples or its own responsibility for those acts. As a result, it cannot expose the significance of similar crimes that the United States perpetrated against the Japanese people. Many people in Japan are caught in a vicious cycle. Precisely because they do not thoroughly interrogate the criminality of the brutal acts the US committed against them or pursue US responsibility for those acts, they are incapable of considering the pain suffered by the Asian victims of their own crimes or the gravity of their responsibility for them. This mentality can be called a “sense of war victimhood without identifying victimizers.” It is the reason why Japan has willingly subordinated itself to US military control, although it has never been trusted by neighboring Asian nations and cannot establish a peaceful relationship with them.

In other words, the popular Japanese historical view based on a “sense of war victimhood without identifying victimizers” is the product of the US-Japan conspiracy, and not the creation of Japan itself. We therefore need to “work through the past” with its double meanings – i.e. the intertwined complex of Japan’s past and America’s past.

Unfortunately, the open letter to Abe completely lacks this perspective - the viewpoint of the US-Japan conspiracy. In this sense, as mentioned earlier, to simply question Abe’s deficient personal view of the history of the Asia-Pacific War is quite inadequate and pointless.

Questions addressing the US-Japan conspiracy are essential
Many Japanese people, in particular high-class militarists, politicians and bureaucrats, who psychologically subjugated themselves almost like slaves to the emperor system before and during the war, quickly submitted to the rule of the US, which brought them “freedom and democracy.” They did so without questioning the real nature of “freedom and democracy,” underpinned as it was by the great destructive power of nuclear and other lethal weapons. They happily acquiesced to “the new society” that the US provided - democracy based upon constitutional monarchy. This is one of the fundamental ideologies of the official historical view of the Asia-Pacific War, based as it is on a “sense of war victimhood without identifying victimizers.” The preconditions for acceptance of this new society were an acceptance in turn of the American justification of the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki as well as Hirohito’s immunity from responsibility for the war. One prominent post-war politician who acceded to this scheme of delusion was Kishi Nobusuke, grandfather of the current Prime Minister Abe Shinzo.

Indeed, Kishi himself was a product of the US-Japan conspiracy. In October 1936, Kishi took up the position of head of the Department of Industry of the State Council of Manchuko - Japan’s puppet state. In March 1939 he became the deputy director of the Office of General Affairs and effectively seized the power to control the entire economy and industry of Manchuko. While working in Manchuko, Kishi closely corroborated with the leaders of the Kwantung Army, in particular the staff officers, and contributed to the formulation of the five-year industrial development plan. This formed part of the preparations for war in China. By developing various kinds of military manufacturing there, this was a plan to make Manchuko a vital strategic base for the Japanese Imperial Army.

One of the reasons that Kishi was arrested and charged as an A-class war criminal suspect shortly after the war was his role in preparing for the war of aggression. It is said that Kishi secretly raised a huge sum by utilizing his power in Manchuko, and furtively gave financial support to many powerful militarists and politicians including General Tojyo Hideki. In October 1941 he was appointed Minister for Commerce and Industry of the newly sworn Tojyo Cabinet. In November 1943, when Prime Minister Tojyo established the Ministry for War Industry - and concurrently served as its Minister - Kishi continued to work for Tojyo both as Deputy Minister for this new government organization and as a minister of state. In the Tojyo cabinet, he was the key person in the rapid restructure of Japan’s economy and industry that enabled Japan’s massive war effort.

It was therefore not surprising that, soon after the war, Kishi was charged as an A-class war criminal suspect. Yet, at the end of 1948, the US adopted a new policy making Japan the vanguard in northeast Asia against the rapidly expanding communist bloc. Kishi together with many other prominent war crime suspects was acquitted and discharged. Furthermore, when he officially returned to politics in 1952 and became Japan’s prime minister in 1957, he received strong support from the US government. His younger brother Sato Eisaku, who served as his government’s Minister of Finance, secretly asked the US government for “financial support to fight against communists.” The US government responded to this request by providing support from the CIA’s fund for covert operations. Later, in 1964, Sato also became prime minister and held that position until 1972. As is now well known, both Kishi and Sato as prime minister made secret agreements with the US government to allow US forces to bring their nuclear weapons to Japan without informing Japanese authorities. If this is not a US-Japan conspiracy, what else can it be called?

An open letter should have been addressed to both Abe and Obama, asking questions concerning both Japanese and American responsibility for this US-Japan conspiracy. For example, the following questions to Obama would have been ideal:

* Mr. Kishi Nobusuke, the current Prime Minister’s grandfather, was arrested as an A-class war crime suspect shortly after the war because of his wartime contribution to preparation for the war of aggression. Yet at the end of 1948, along with the new US policy to appoint Japan as the vanguard in northeast Asia against the rapidly expanding communist bloc, Kishi was acquitted and discharged. As President of the United States, how do you assess this fact?

* While he was Prime Minister of Japan, Mr. Sato Eisaku, Mr. Abe’s great-uncle, introduced a policy called “Three Non-nuclear Principles.” This prohibited production and possession of nuclear weapons in Japanese territory, and prohibited also their entry to Japan. On the strength of his anti-nuclear policy, he was awarded a Nobel Peace Prize in 1974. But later it was revealed that he had made a secret agreement with the Nixon administration to allow US forces to bring nuclear weapons into Okinawa. As a US president who also received the Nobel Peace Prize because of your anti-nuclear stance, what do you think of this hypocrisy?

* The Japanese Prime Minister, Mr. Abe, claims that Japanese forces did not commit atrocities against Asians and Allied POWs. He utterly denies Japan’s responsibility for the war of aggression. Similarly in Hiroshima in May 2016 you, as the US president, did not admit responsibility for the crime of indiscriminately killing over 210,000 people by means of the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki - mostly civilians, including 40,000 Koreans. You visited Vietnam shortly before going to Hiroshima. There too you refused to discuss American responsibility for the intense and indiscriminate bombings, including the use of agent orange, that the US forces conducted during the Vietnam War. Because of your past performance, we think that you and Mr. Abe share the same problem of moral deficiency. How do you respond to this criticism?

* At present, people in Okinawa and Iwakuni, where large US military bases are located, live in deep fear of accidents involving US military planes such as Osprey and other types of jet fighter. They are also extremely concerned about the effects on their communities and environment of the building of the new US military base at Henoko in Okinawa and expansion of the Iwakuni base in Yamaguchi. Out of this serious concern many people, including the Governor of Okinawa Prefecture Mr. Onaga Takeshi, are currently vigorously involved in a civil campaign against US military activities in these regions. Yet the Abe administration is trying to quash these people’s voices using heavy-handed measures. As the Supreme Commander of the US forces, how do you feel about the serious concerns of these Japanese people?

Conclusion

In May 2015 I was also invited to join the signatory group of an open letter to Abe Shinzo that criticized his handling of the so-called “comfort women issue” (i.e., Japan’s military sex slaves), which was initiated by some American Japanologists. At that time, too, I pointed out that Japan’s lack of a sense of its own war responsibility was closely intertwined with the American justification for the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki. I proposed to amend the content of the letter so that Americans would also think about their own war responsibility in conjunction with the “comfort women” issue. But my proposal was rejected. Through these repeated experiences I learned that, like many Japanese, American scholars and citizens are also required to “work through their own past,” the process that Theodor Adorno clearly advocated in his 1959 public lecture, Was bedeutet: Aufarbeitung der Vergangenheit (The Meaning of Working Through the Past).

To conclude my critique of “An Open Letter to Prime Minister Shinzo Abe On the Occasion of Your Visit to Pearl Harbor,” allow me to quote Adorno’s words from this lecture.

Above all enlightenment about what has happened must work against a forgetfulness that all too easily turns up together with the justification of what has been forgotten.  …….
A working through of the past understood as enlightenment is essentially such a turn toward the subject, the reinforcement of a person’s self-consciousness and hence also of one self. This should be combined with the knowledge of the few durable propaganda tricks that are attuned exactly to those psychological dispositions we must assume are present in human beings (emphasis added).

- End –
Yuki Tanaka

* ‘U.S. President Obama’s Visit to Hiroshima: a Critical Commentary through the Eyes of Hannah Arendt’